アスファルトのタイガー
中林はすっかり海外の映画俳優となっていた。
出演するのは洋画作品ばかりで、オファーも海外からが多かった。
出演した作品から次の仕事が舞い込み、切れることなく仕事が続いていた。
しかし有名な作品とか著名な監督に恵まれたわけではなく、ひとえにエージェントがうまく彼を使い回していたというのが本当だろう。
東洋の俳優としてその存在感をうまく引き出し、ストーリーに変化を効かせるようにこの異国の俳優を要所で起用していた。
業界ではそのキャラクターを認識され、使い勝手のいい存在として各方面から声を掛けられるようになっていた。
中林はすでに活動の主体をロサンジェルスに移し、個人事務所を立ち上げてアメリカのエージェントと直接やり取りして仕事を受けるようになっていた。
日本の芸能事務所は彼を引き留めたかったが、アメリカのエージェントの提示するギャラが日本とは桁が違っていて自然に契約を結ぶことになった。
個人事務所は妻の玲が社長を務め、何人かのスタッフを使っていた。
中林はそうして仕事を玲から受け、演じることに集中できていた。
二人の資産は相変わらず株高や不動産価格の上昇に支えられて増加し続け、アメリカに不動産を購入できるまでになっていた。
その運用は玲が一手に引き受け、簡単な報告を中林に毎月することになっていた。
俳優業はアメリカで細々と続き、もう日本での仕事はほとんど受けていなかった。
住まいもロサンジェルスに家を買い、その高額な家は夜景がきれいに見渡せる高台にあった。
リビングの床から天井までをガラスで囲い、夜には一面の夜景が絵のように綺麗に見えていた。
売れない俳優が買えるような代物ではなく、資産家ならではの物件に違いなかった。
評価額900万ドルの邸宅だが、2人にとってはそれほど高価な買い物には感じられなかった。
すでにニューヨークに不動産を2件購入しており、それぞれが1,000万ドルを超える金額だった。
これらはすでに市場価格において倍近い価格で取引されており、何時売却しても損はない物件となっていた。
そんな状況の中で中林の俳優業は目立たず、ギャラもそれほど上がらず、しかしその安さが彼を引っ張りだこの脇役として認知させていた。
中林はそんな状況で淡々と俳優業をこなしていた。
特別なライトも当たらず、映画祭のレッドカーペットなどお呼びでなく、ただ撮影現場で次から次へと呼ばれるままに役をこなし、旧知の俳優やエージェントたちと酒を酌み交わす。
毎日がそんな状態で過ぎていた。
そしてある時、遂に玲が妊娠したことが分かった。
玲はすぐに中林にそのことを伝え、二人は喜びを分かち合った。
日本の実家ではすでに父親が病気で亡くなっており、母親が一人で暮らしていた。
二人はこの機会にアメリカへ呼んで、そのまま一緒に暮らそうと考えていた。
ひとまず母親をロサンジェルスに呼び寄せ、玲の体調を見ながら面倒を見てもらおうとしていた。
母親は用意したビジネスクラスのチケットでロスに着き、案内された今の豪邸に驚いていた。
母親には通訳兼運転手の女性をつけ、日々の暮らしに困らないよう手配していた。
玲は母親と久しぶりに一緒に暮らし、時の流れを感じていた。
母親は夫が亡くなってからは一人で暮らしていたが、さすがに年齢を感じていて、居心地のいいロスを気に入っていた。
玲と母親はすでに日本の家を別荘のように考えていて、ロスを自宅と思っているようだった。
中林は同居することを勧め、母親も同意してくれていた。
こうして玲は出産にむけて母親をそばに置いて暮らしていた。
中林は仕事が途切れず、毎日のように撮影現場へ出かけていた。
時折、玲と母親が見に来ていたが、その忙しさを見て会うこともなく帰って行っていた。
玲はこの時、自分の人生を思い出すように振り返っていた。
中林と研修会で出会い、伊藤礼香から男を奪うことになり、彼女と別れてしまった。
中林は彼女が初めて求めた、ただ一人の男だった。
中林が俳優を始め、それが原因で二人とも会社を辞めていた。
プロポーズを受け、中林と結婚してやがてアメリカで生活してきた。
中林の資産運用をすることで数々の不動産をはじめとして資産を得ていた。
今はこうしてアメリカで出産を控え、母親が同居してくれることになった。
望む以上の人生を得て、玲は感慨深く感じ入っていた。
これは中林が与えてくれた人生だと思っていた。
彼がいなければ、こんなに幸せを感じることはなかっただろう。
自分の選択した男は間違いなかったと思った。
彼に自分の人生を捧げ、それ以上の幸せをもらった。
そして今、新しい家族を迎えようとしていた。
いつの間にか年老いた母親を傍で見ながら、やがて自分もこのようになっていくのだと感じていた。
そして常に中林が隣にいることを思い描いていた。
数年前に亡くなった父親が、中林を信じてついて行けと助言をくれていた。
父親の言ったとおりだと思った。
中林は父親以上に彼女を大切に愛してくれ、彼女の心の支えとなっていた。
そういえば、中林には人をいつの間にか少しだけ元気にしてくれる不思議なところがあると感じていた。
玲は今頃になって何を想っているんだろうと自嘲した。
売れない役者の資産家は今日も安いギャラで仕事に忙しいらしい。
帰りを待ちながら、彼の好きなメニューを考えていた。
母親がそばで娘の顔を見ながら微笑んでいる。
この子は良縁に恵まれて、幸せそうに暮らしている。
自分たちの苦労を見せずに育ててきて、優しい子に育って嬉しかった。
後は夫の待つ場所へ行くだけだと感じていた。

季節が過ぎていき、冬が始まってから玲が出産した。
小さな男の子が生まれていた。
二年後、二人目が生まれ、今度は女の子だった。
二人の子供に恵まれ、おばあちゃんは相手することに忙しかった。
中林は相変わらず安いギャラで仕事をしていた。
玲は子育てに忙しく、今では資産運用は放り出していた。
中林はそんな玲を見て笑顔になっていた。
それでいい、それがいい。
中林は仕事を控えるようになり、家で子供たちと過ごす時間が増えていた。
年に何度かは家族全員で海外を旅行し、思い出作りが出来ていた。
子供たちには外国となる日本へも旅行し、中林の故郷の東北へもみんなを連れて行っていた。
見る物すべてに驚いている子供たちは元気に育っていた。
長男は母親に似て可愛らしく、優しい性格だった。
長女は父親似で、その目が魅力的で人を引き付けていた。
中林はもう俳優業を引退し、隠居生活のようになっていた。
玲はそんな中林のそばを離れず、一緒に過ごすことが多かった。
子供たちが大きくなって親の手を離れ、学校生活が忙しくなっていた。
そんな二人が学校へ出ていくのを見送りながら、玲は中林を見つめた。
「あんな時があったのよね。」
中林のそばで玲はつぶやいた。
「もう一度、あの頃からやり直したいわ。」
中林は振り返って玲を見た。
「そうなの?」
「いえ、もう一度、同じことをしたいなって。」
玲が言い直して中林を見る。
「もう一度、大変だったけど、同じ人生を経験したいなって。」
玲は目を瞑り、何かを思い出そうとしている。
中林は玲に近づき、抱きしめて言った。
「俺は玲がいれば、それでいいや。」
玲はじっとして顔を見せなかった。
中林は玲の頭を撫で、優しく抱き直した。
「玲さえいれば、後はどうだっていい。」
玲は下を向いてじっと耐えていたが、遂に泣いてしまった。
さめざめと、おとなしく、涙を流していた。
外は爽やかな気候で空が青く澄んでいた。
静まり返った家の中には二人しかいなかった。
朝のひんやりした空気の中で、互いの身体の体温があたたかく感じられていた。
玲は中林の胸に抱かれながら、出会った頃の自分たちを想っていた。
あれからもうだいぶ時が経っていた。
若かった二人は、もう子供達の将来を案じる年齢になっている。
中林は玲を見つめ、彼女が涙しているのに気がついた。
彼女が涙を流すのを人生でこれまで何度か目にしてはいた。
喜びに、悲しみに、あるいは感激に、こらえきれない感情があふれ出た時、何度か彼女がその姿を見せていた。
その涙のわけは彼女にしかわからなかったが、それは玲らしい姿だと感じていた。
それは久しぶりに見ることが出来た、彼女が泣いた日だった。


                           了