第3回 復興・復旧の現実との狭間で①
避難所のお手伝いから帰って来てからは、日々の生活について「当たり前」ということがどれだけありがたい事かと感謝する気持ちを持てるようになりました。一方で「当たり前」の生活ができない被災地の方々の生活ぶりがニュースなどで流れてくるのを見るたびに、このままでいいのだろうかという思いは日に日に強くなってきました。と同時に、同じ日本でそういう生活を虐げられている人たちがいる事も知ってか知らずか、「当たり前」を「当たり前」としか感じずに生活しているかのような人たちのことを見ていると、その姿さえももどかしく、歯がゆく感じられ、そうした生活を「当たり前」に過ごしていくことに違和感さえ感じてくるようになったのです。ついには、仕事を辞めて、ボランティアでもいいから被災地へ行って何かしたい。。。と、家族の居る私には到底現実的でない事まで考えるまでになってしまいました。

(気仙沼の避難所近くに設営された自衛隊による仮設風呂)

(自衛隊から配給される食糧を仕分け~気仙沼の避難所にて)
この葛藤を当時の直属の上司にはっきりと話したところ、幸いにもその方は私の気持ちを受け止めてくれたようでした。こうして避難所派遣から3年後に、念願の被災地派遣を1年間仕事として命ぜられたのですが、後から聞いた話では、私の想いを聞いてくれた当時の上司が人事へ強く掛け合ってくれて実現できたのだと知り、その方には今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
一方家族には、予め希望したことは話していたものの、いざ本当に行くことが決まった時には、いささかショックもあった様子でした。希望したとはいえ、受け入れ側の状況などを考えると事務職の自分は可能性が少ないのではとも話していましたし、毎年希望を申請しても受け入れられなかったことが続き、今年もダメだろうという雰囲気があったに違いありません。そんな中、当時小学5年生だった次男が「自分が悔いの無いようにやってくればいいじゃん」と言ってくれたことが、どれだけ嬉しかったことか。
多くの応援を背に、いよいよ被災地へ向かうことになったのですが。。。
まず派遣先が宮城県多賀城市と聞き、地図で場所を確認して初めて知ったというくらい、存じてませんでした。果たして震災による被災状況はどれくらいなものなのか、気仙沼や陸前高田、石巻などマスコミによく取り上げられている場所ならまだ少しはわかってたのですが、そうした情報は全く聞いておらず、また事前に情報をもらうほど余裕のなかったのも事実でした。何せ初めての単身赴任なため、家財道具や家電、生活用品などをある程度そろえなければいけないなど、出発までは慌ただしいものでした。
派遣先でも色々行動ができるようにと自家用車で乗り込むことに決めていました。休日などを利用して、多賀城市以外の被災地、宮城県だけでなく福島・岩手の被災地も自分の目で見て、足で回りたいという思いがありましたから。ただ、派遣先の状況がわからないため、そこまで余裕があるのかはわかりませんでしたが。。。
呉市から多賀城市までは約1200km。荷物はなんとか自家用車にすべて詰め込むことができたので、業者の手を借りることなく引っ越すことができました。テレビや冷蔵庫などの家電や布団なども提供いただいたアパートにレンタルで付いていたため、とても助かったのです。ノンストップで走れば日付を超えることなく到着することもできたのですが、未知の地へ行くということもあり安全策で途中静岡県のハイウェイホテルで1泊して多賀城市へ入りました。

カーナビに従い、いよいよ高速道路の出口、仙台港北インターチェンジに近づく頃から、高架の高速道から見れる街並みのなんと都会な事には、正直驚きでした。高速道を降りて、いよいよ多賀城市内に入っても、国道45号沿いは店舗が数多く並び、交通量も多く、本当に震災に遭った場所なのかと疑うくらい復興が進んでいるなと感じました。後から聞いた話では、私が最初に市内に入るのに通った国道45号も津波にのまれ、多くの車などが流されたのだと聞き、当時の写真を見せてもらいさらに驚いたのでした。多賀城の復興が早かったのは、市内のうち大きな津波被害にあった地区は海側の一部であり、しかも仙台市に近かったことからがれきの撤去などが他の地区に比べて早く進められたからなどの理由があったようです。
