第2回 気仙沼の避難所での一週間


 幸いにも私の希望が叶い被災地への派遣が決まりました。
震災発生から約3か月後の平成23年6月4日から11日までの約1週間で、派遣先は宮城県気仙沼市、派遣先での「任務」は市内の高台にある気仙沼小学校の体育館に設置された避難所のお手伝いということでした。


 東京から以東へは観光でも行ったことがなく、自分にとっては「未開の地」である東北でしたが、そういう観光気分では全くないのは当然でしたが、むしろ現地がどのような状況なのかと言う詳しい情報も得られないまま出発したので、緊張と不安な想いで向かったのでした。


 仙台からでは海岸沿いの鉄道は津波で流されて不通で行けないということだったので、東京からは東北新幹線で岩手県の一ノ関駅まで行き、そこで呉市からもう一人派遣することになっていた日野君と合流し、ドラゴンレール大船渡線で気仙沼に入りました。


 日野君とはそれまで面識もなく、出発前の事前打ち合わせも電話のみだったのですが、初対面では若くてしっかりした、将来を嘱望された「選ばれし人」という印象でした。


 気仙沼駅からタクシーで2~3分ほどで避難所のある気仙沼小学校に着いたのですが、その間の街の様子はテレビで見た被災地の様子とは違い、建物が倒壊したりしてる様子もなく当初の予想とは違ったものでしたが、それもそのはず、私が通った側は小学校のある高台の海とは反対側であったため被害が少なかったようです。しかし、その後衝撃的な光景を目にすることになるのですが。。。

イメージ 1
イメージ 2

 避難所となっていた気仙沼小学校には、当時まだ約100名ほどの方が避難していて、フロア全体を所狭しと段ボールで仕切り、寝床を作って生活されていました。救援物資で送られたキャンプ用テントは数個しかなく、特別な理由のある方のみそこに入っていましたが、あとの方は皆「剥き出し」の空間で、小さな子どもからお年寄りまでが生活していました。ただ、電気や水道のライフラインは復旧していたのがせめてもの救いにはなっていました。事前情報では電気も復旧していないから携帯電話の携帯充電器は持って行った方が良いのではと言われていたので、その点は助かりました。と言っても携帯で連絡を取るほどの余裕はありませんでしたが。。。(当時はまだガラケーでしたし)
イメージ 3
イメージ 4


 避難所のスタッフは気仙沼市役所から1名(3名ほどがローテーションで寝泊まりしてました)、千葉県柏市から市職員を含めた市民ボランティアの方が5名、それと静岡県焼津市役所の職員2名が途中から合流という状況でした。
 初日に私たち呉市の「前任」だった同じ広島県江田島市からの派遣職員の方から仕事内容を引き継ぎました。主な仕事は、送られてきた救援物資や自衛隊などから配給されてくる食事を避難されている方に配ったり、お茶の炊き出し、ごみの収集、トイレ掃除などでした。朝5時に起床して石油ストーブ5~6台へ点火、やかんに水を入れお湯を沸かすことからスタートします。6月とは言え朝晩はまだ冷え込み、また体育館と言う大空間のためストーブは必需でした。夜は10時一斉消灯で、私たちは11時までその場で様子を見届け、その後ステージ横の「用具置き場」と言う狭い空間を雑魚寝するって感じでした。
イメージ 5
イメージ 6
イメージ 8
イメージ 9
 1週間は長いようであっという間でした。その間何人かの方に震災発生当日のお話を聞かせてもらうことができました。命からがら逃げてきた方、建物の屋上に逃げて、5センチ下を流れる津波に恐怖を感じたという方、火のついた材木が流れてきてダメだとあきらめたという方、肉親が津波に流されるのを片手で捕まえながらも、このままじゃ二人とも流されるから手を放して生き延びてくれと言って流されてしまった方など。。。話を聞いてるだけで涙が溢れそうな事を、私に切々と話してくれたことにとても感激し、励まし合いました。

イメージ 10

 休憩時間を利用して、市内の被災状況を自転車で見て回ることができました。その衝撃的な光景を目の当たりにし、ただただ唖然とするばかりで、戦争を知らない世代の私が「空襲の後のようだ」と感じるほどの恐ろしい光景でした。これが自然の力で起こった事なのかと、今まで感じたことのない恐怖を覚えました。全国各地の県名・市名の入った制服を着た警察官や消防隊員、自衛隊員の方が行き来する中、罪悪感を感じながらもデジカメのシャッターを遠慮がちに押したのを覚えています。

イメージ 11
イメージ 12
イメージ 13
イメージ 14

 最終日、1週間で私はいったい何が出来たのだろう、果たして役に立ったのだろうかと、自虐的になってたところ、何人かの方に「遠くから来てもらってありがとう」と手を差し伸べられ握手されたとき、とても胸が熱くなりました。家族や親せき、マイホームなどを震災で失った人達ばかりなのに、私だったら気持ちは落ち込んでやり場のない心の動揺をぶちまけたくなるような状況にもかかわらず、どうして私たちに「ありがとう」って言ってくれるのか、その心の温かさ、我慢強さにとても感動しました。そして、必ずまた戻って来て、被災地のために何か手伝いしたいという思いをより強くして、呉に帰ったのでした。
イメージ 7