1週間ほど経ってしまいましたが、前回の続きを。
休暇村では3人でゆっくり過ごせて、幸せ気分満喫。
(妻には申し訳なかったけど)
朝もバイキングでお腹いっぱいになり、
心も体もリフレッシュできました。
ここに限らず、全国の休暇村どこもオススメですよ(PR)
(妻には申し訳なかったけど)
朝もバイキングでお腹いっぱいになり、
心も体もリフレッシュできました。
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で、再び船で気仙沼まで。

この「航路」を津波が通って街を飲み込んだんですが
この穏やかな光景からは想像もできません。
この穏やかな光景からは想像もできません。
船から気仙沼の町並みを見るとあらためて
復興への道のりの長さを痛感します。
復興への道のりの長さを痛感します。

フェリーを降りて、まずはおいらが3年前に手伝いに行った
「避難所」気仙沼小学校へ行ってみました。
「避難所」気仙沼小学校へ行ってみました。
当時の写真をタブレットで見せながら
避難所となった体育館へ。
避難所となった体育館へ。

息子たちはほとんど感想を口にはしませんが
何を思ったでしょうか。
何を思ったでしょうか。
続いて大型船が津波に流され乗り上げられた光景で有名な
鹿折地区へ。
鹿折地区へ。

(当時の画像)
ここでも当時の写真をタブレットで見せてやると
彼らの口数もほとんどなくなってきました。
ここでも当時の写真をタブレットで見せてやると
彼らの口数もほとんどなくなってきました。

気仙沼を後にして、次はおいらも初めて行く陸前高田市へ。
ここも、気仙沼同様被害の大きかった地区と聞いていたし
「奇跡の一本松」もいつかは訪ねてみないとと思ってました。
ここも、気仙沼同様被害の大きかった地区と聞いていたし
「奇跡の一本松」もいつかは訪ねてみないとと思ってました。
市内に入るなり、驚くべき光景が目に入ってきました。

切り開かれた山の中腹から街中へ巨大な構造物が
何キロにも渡って張り巡らせていたのです。
何キロにも渡って張り巡らせていたのです。
工場の一角か何かと思いましたが、どうやらこれはベルトコンベア。
山から削った土を、津波で流された街の「嵩上げ」のために
送るためのものだそうです。
山から削った土を、津波で流された街の「嵩上げ」のために
送るためのものだそうです。

その規模といい、圧倒されると同時に
これだけの広大な区域が、津波に流されたのかと思うと
恐怖と悲しみが襲ってきました。
これだけの広大な区域が、津波に流されたのかと思うと
恐怖と悲しみが襲ってきました。
車を降りて、奇跡の一本松へ。
街を壊滅に追いやった津波に耐え、一本だけ残ったその生命力に感動し
間近で見れて、少し勇気をもらった気がします。
間近で見れて、少し勇気をもらった気がします。

このあとも、南三陸町、石巻と、被災地を巡りながら南下し
多賀城市へやって来ました。
多賀城市へやって来ました。
見てきた被災地と比べると、多賀城って都会だねと
復興の速さに彼らも驚いていたようですが
いまだに仮設住宅にいる被災者の人達もいることを伝えてやりました。
復興の速さに彼らも驚いていたようですが
いまだに仮設住宅にいる被災者の人達もいることを伝えてやりました。
とは言え、せっかく宮城に来たんだからと
夕食は牛タンの店へ。
連休なんで、どこもたくさん並んでて
1件目は2時間待ちということで諦め
2件目も10グループほど待ちだったのですが
「肉」に飢えてる彼らのために、待つことに。
夕食は牛タンの店へ。
連休なんで、どこもたくさん並んでて
1件目は2時間待ちということで諦め
2件目も10グループほど待ちだったのですが
「肉」に飢えてる彼らのために、待つことに。
ようやくありつけた「牛タン」はサイコーでしたヽ(´▽`)/

その後は銭湯に入り、おいらのアパートへ。
「狭い」「臭い」と色々言われながらも
3人での最後の夜を過ごしたのです。
「狭い」「臭い」と色々言われながらも
3人での最後の夜を過ごしたのです。

最終日、羽田空港まで送るため
朝早く出発。
予想通り道中は「スマホ」か「寝る」彼らでしたが
学校のことなど少しでも会話できて良かった。
朝早く出発。
予想通り道中は「スマホ」か「寝る」彼らでしたが
学校のことなど少しでも会話できて良かった。
長男は松山へ、二男は広島へ別々の飛行機に乗せ
無事に帰ってもらいました。
無事に帰ってもらいました。
それにしても多賀城~羽田の往復800kmはタフだった。
特に帰りは、彼らと過ごせた喜びと、
また一人になった寂しさが入り乱れ
奥田民生の「息子」を歌いながら帰りました。
特に帰りは、彼らと過ごせた喜びと、
また一人になった寂しさが入り乱れ
奥田民生の「息子」を歌いながら帰りました。