たっぷりと水を張った桶に映る空は、今日ものどかな青さだった。
書物を通し、また鷹の目を通して、この世には雲が垂れ込める空も雨や嵐もあることをイェシリーは知っている。しかし、それを我が身で味わってみることはできない。

イェシリーは小さく溜息をつき、物思いも一緒に放り出すように、桶の水を花壇に撒いた。桶の青空は砕けて消えた。
母のことを知って以来、イェシリーは急速におとなびた。<エイル>の修行を始めたことも、彼女に落ち着きを与えた原因かもしれなかった。数冊の書物とマニンの一般的な知識しかなくとも、ただソルーシュに言われるまま書物を暗記するよりずっとよかった。


庭の片隅に桶を置くと、イェシリーは白い陶器の水盤を持って館へ入った。鼻先でアルフの著書『失われた塔』をつついていたマニンがふり返り、
「髪を洗うのかい?」
と訊ねるのにうなづいて、イェシリーは水盤を小さな台に載せ、長く伸びた漆黒の髪をひたした。
「それが終わったら、薬草の名のおさらいをするかい?」
もう一度うなづいてから、首を軽くかたむけ、
「リフィアの髪の色は何色だったの?」
イェシリーは唐突に質問した。「母」を表す単語はどうにも使いにくく、イェシリーは母を名前で呼んでいる。
「銀ねず色だったよ。光に溶けるように輝くと、ソルーシュみたいな白銀の髪に見えたね」
「それなのに、なぜわたしは黒髪なんだろう」
イェシリーは頬をふくらませた。
「ソルーシュのような髪がよかったな。ずっと小さい頃から思ってたの。もしかしたら、わたしも大きくなったらあんな髪になるんじゃないかと思ってたんだけど」
「あいにくだったね」
マニンが軽く鼻を鳴らした時、ソルーシュが入ってきた。イェシリーはほのかに甘く薫る香油を髪にすりこんでいるところだった。

本人は嫌うが、つややかな黒髪は潤みを帯びて美しく、みずみずしい乙女の予兆をはらんでいる。ソルーシュの表情のない顔に一瞬よぎった微妙な色合いを、マニンだけが横目で見ていた。
「武技の練習だ」
「えっ。髪を洗ったばかりなのに、嫌よ」
イェシリーはそっぽを向いた。

 

美しさとともに、扱いにくさも増しているのは確かだった。ソルーシュはため息をつき、鼻に笑い皺を刻む豚をにらみつけてから、また中庭へと出て行った。
「もう、あんたにはかなわないかもしれないね」
マニンが可笑しそうに言う。言葉を返そうとして、イェシリーははっと身を固くした。意識のどこかが強く引っぱられる。
「どうしたの?」
「マニン…、ねえマニン、何かが起きたわ。フェルスのお城が…」
虚ろになった目を宙に据えて、イェシリーはとぎれとぎれに叫んだ。






イェシリーの緑の瞳は、フェルス王城のもっとも高い塔の上から中庭を見下ろしていた。王城はそれ自体が意志を持つ獣のようにうなり声をあげている。石造りの壁がふるえているのではないかと思えるほど、あわただしい気配で充満していた。
鷹の琥珀色の眼はイェシリー本人のものよりはるかに精巧だった。その眼には地にうごめく虫が映り、窓に掛けられた帳(とばり)のすき間から人間たちが駆けまわる姿も捉えている。やがて中庭にも人間が飛び出してきて、何かを叫んだり、口を引き結んだりしながらあちこちに散った。どの動きにも緊張がある。
《ヒューギン、もっと下へ。人声が聞こえるところへ降りて》
《承知》
ヒューギンはひらりと舞い、優美なテラスをそなえた部屋の脇に立つ椿の梢にとまった。出入り口を兼ねた大きな窓は開け放たれ、中から尖った声が漏れ聞こえる。
「それでは、いつからコルの世継ぎはいなくなっていたのだ」
「わたしどもも存じません。ハールさまのお世話は “ 夢の護り手 ” の方々がなさると…。王命と伺いましたので、わたしどもは “ 夢の護り手 ” へのお取り次ぎだけいたしておりまして」
「そして、それらがいっせいに逃げ散ったわけだ。いったい、どうなっているのだ」
苛立たしげな声がしたところで、鷹の眼の端を清(すが)やかな白い影が横切っていった。
「お兄さま」
庭からテラスに上がった美しい少女の姿にイェシリーは我知らず乗り出し、思わぬ筋肉を動かされた鷹は均衡を失って木から落ちかけた。


《 “ 中 ” にいる時は気をつけろ》
《ごめんなさい、つい》
怒るヒューギンをなだめながら、イェシリーはあらためて少女を見つめた。白絹に金糸の刺繍が施されたすっきりしたドレスに身を包み、編まずに背に垂らした髪はやや赤みがかった金色、陽光をまとっているかのようだった。彼女は小気味よく大窓をくぐり、
「どうなさったの。なぜ客間へなど?」
奥へ向かって言葉を投げた。
「コルの世継ぎはどこへ逃げた。まさかお前も加担したのではあるまいな」
応じる男の姿は、ヒューギンの位置からは見えなかった。
「何のお話なの?」
「今朝がた、王城にいた “ 夢の護り手 ” どもが逃げた。彼らがいなくなってみると、コルの客人もまた姿がなかったのだ」
「そんなこと」
少女は髪を跳ね上げて笑った。
「 “ 夢の護り手 ” のことは、お父さまにお訊きになればよろしいでしょ」
「そうはいかぬからあわてているのだ」
男は少女にぐっと近づき、おかげでその頬の削げた顔が見えた。顔色はひどく悪い。
「父上は眠っておられる。呼んでも揺すっても反応がない、呪われた眠りに陥られたのだ」
と、彼は少女にささやいた。

 

 

 

 

 

くま 明日に続きます みずがめ座

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