最近の『桃太郎』やそれに近い物語の
色づけぶりに驚いている。
どんどん鬼寄りの雰囲気に変わっていて、
「平和な島に暮らす鬼たちのもとへ
勝手に侵略してきた桃太郎…」
などと発展させた二次創作も見かけた。
もともと
「鬼が近隣の人間を苦しめている」
前提のお話なのにね(笑)
物語を書く身として、
定型話を崩してみるのが面白い
というのはわかる。
ただ、どうもエスガロスの脚色と同じで
「定型に」崩されているように思う。
確かに、鬼ヶ島征伐は
義経=ジンギスカン説などと同様に
政治利用されたものではあるが、
(大モンゴルの祖=日本人説には
誰も文句言わないのは何故なのかなぁ。
東北のヒーローだから?)
それを逆さまにして
鬼(外国)側についただけでは、
政治利用に変わりはないのではないか。
言葉(主義主張)が変わるだけで
やることは一緒。
単純に、今の善い言葉っぽいからと
食いつくのでは
戦時中に万歳三唱してる人を
愚かだとか哀れだとか
突き放しはできないと思うのだけど。
ある著名なブロガーさんが
日産のゴーン氏問題について、
「それまでの貢献・功績をまったく無視して
全人格を否定するようなバッシング、
日本らしい…と感じる」
といったことを書いておられて、
やはりこれは「日本病」なのだなと
思ったことだったが、
ひとつには、
忖度や空気読みを尊重する上に
流行りもの好きな日本人は
その時々の流れに
乗りすぎる傾向があるためかと思う。
世間の主流だと思うと
俄然、大声になる。
大声で互いに盛り上がるうちに
どんどん先鋭化してゆく。
「正しい」ほうへ教導してやらねばと
事実を歪ませるのも辞さない。
そういえば、今朝のニュースで
杉原千畝氏をたたえる式典が
エルサレムでおこなわれると聞いたが、
「二次大戦中、本国の指示に背いて、
欧州から逃れるユダヤ人にビザを発給した
と、される」と言われていた。
だが、このビザ発給やユダヤ人支援は
帝国政府が許可したものである、
という話がある。
「と、される」という微妙な言い回しは
それを踏まえてのことだろう。
二説のどちらが正しいのか、
それをさくっと検証できるほどの
近~現代史の知識は持ち合わせてない。
ただ、どちらもきちんと
伝えられるべきだとは言いたい。
歴史を学べば、
これまたすぐに感じることだが、
直前の社会の主流にいた人々は
たいがい貶められる。
(個人的には、日本では殊に
手の裏を返すことが多い気がする。
つまづいた人をとことんケナして
溜飲を下げる国民性が感じられるようで
ちょっと悲しい。)
帝国政府のしたことは
何もかもろくでもないことばかり…
というのは、
差し引きして聞いてもおかしくない。
不明のくせに、ここは言い切れるのも
史上、同様の事例をたくさん見ているから。
歴史学習の、ひとつの効用かと思う。
…自分の不勉強を
引き合いに出すのも何だが(笑)
話を戻すと、
残念ながら
「と、される」とか「諸説あり」などと
事なかれ的にぼやかすのみで、
諸説を聞かせてくれるメディアは少ない。
「悪い鬼を倒しに行く」
というのが刷り込みであるのなら
「悪い桃太郎が攻めて行く」
というのも刷り込み、
そして
鬼が「平和主義者の罪無き者」に
いつのまにかすり替えられている、
そんな『桃太郎』を見ていると
やっぱり不安になる。
長くなってしまった(;・_・A