先日「逃散」の話の時に書いたように、

直訴や強訴(ごうそ)であっても
された側にも厳罰が下された。

しかし、
普通に昔話を聞いて育つと
民側の悲劇ばかり語られているから
そんなことも「思いがけないこと」になる。

武家の苦労や悲劇は
それなりに踏み込んだ人しか知らなかった。

歴史好きが増えた(らしい)

この頃は、少しは違うのだろうか。



歴史(=記録)はいつも操られてきた。

誰かが文書を作る場合、

その誰かの体裁の悪い話はスルーし

「敵」の悪評は盛大に書き立て、
 

どうかすると記事の捏造までして
その都合に合わせられてきた。

だから
同時代資料が必ずしも信用できない。

この「疑い深さを身につける」だけでも、
歴史を学ぶ効用となるかもしれない。


冗談ではなく、
少し踏み込んでいけば
どんなことにも
イメージ操作は存在する。

それは「昔の出来事」ではなくて、
同じく人が生きている以上は
現代にも起きていることだろう。





 

いつでも、どこにでも、
わたしたち庶民の
味方面をする者たちの中にも、

わたしたち自身の中にも、

自分の都合の良いように、
あるいは
自分の聞き心地の良いように、

事実を書き替えてしまうものが
存在する。


その意味でも、
民百姓は天地の始まりから
現代人と同じ民度を持っていて

常に「悪の権化」が他にいたために
世の中は悪かったのだ、

と言わんばかりの歴史観察は
わたしたちの目を覆ってしまう

危険があると思う。



近代的な意味合いでの道徳・良心は
ほぼ誰も持っていないだろう。

その時代の人間は
その時代の感覚で生きてるのが
当たり前の話。

このことは、逆に
自分たちが、別時点から見たら
おかしな感覚の中で生きているかも…
という畏(おそ)れを抱くために

すなわち謙虚であるために
必要な歴史教育の一部だと思うのだが。


何故か支配階級を見る時だけ
「近代の秤」を持ち出して裁く、

謙虚どころか
自意識を肥大させるような
歴史の捉えかた、

ものごとの捉えかたは、

結局たやすく騙される素地を
作っていないかなと不安に思っている。

 

 

 

 

くま どうも頭も身体も冴えません みずがめ座