キリスト者たちの割れた反応を見て、
わたしは「この世のこと」を考えていた。

 

 

悪魔の意志ひとつにまとまり、
強大なパワーで迫ってくる悪魔側。

対して、
どう対処するのかすらバラバラ、

互いに足を引っぱってみたり
あげく迷いが出たりもする「正義」側。

しかし、このイライラする状況が
理想、良心、正義の実相だと思った。

そして自由主義社会を見るようだ

とも思った。

(ハリウッド作品だから含みはあるのかも)

 

 

 

 

クリスティーンひとりを犠牲にして、
世界じゅうの人を救おうというのも
必ずしも間違ってはいない。

 

多くの人を救うことができるのなら

でき得る限りの努力を尽くす。

 

その過程で犯す悪事について

やむを得ない、で済ますのではなく

自分の命も共に捧げるというのであれば、

 

彼らの信仰で言えば

天の国の我が席をあきらめてでも、

というのであれば、

良い覚悟だと言ってもいい気がする。

この視点からは、教皇たちの姿勢は
神(=なりゆき)任せにして逃げている、
という解釈もできる。


また、
ジェリコたちを助ける牧師のように
「自然に反する(殺す)こと自体が罪」
と考えるのも間違いではない。

これは電車の例え話、
少数のほうの作業員なら殺していいのか、
という問題にも結びつく。

確かに、善き道は単純ではない。
誰かを(社会的なもの含め)抹殺すれば
世の中が平和になる…
というのはテロリストの思想だ。


さらに、教皇たちの考えも、

革命後には旧勢力は破壊されるもの、
まして支配の座に就くのは悪魔。

どんな凄惨な死にざまとなるか…

 

そうした自分自身の未来も

当然のこと予見しているだろうに、

それを恐れぬ覚悟を据え、
なお信念を保ち続けるという意味で、

神に従順であれという決まりごとを離れても、
決して間違ったものではない。

 

冗談じゃない、俺は死にたくない!

という信徒を無視することにはなるが。






こんなふうに、

自由で比較的公正な社会には

結論に至るまでにいくつもの道がある。

 

各々に良否があって、

長い時間をかけて調整したあげく、

中途半端なものになることも多々ある。

 

回りくどくてイライラするような在りかた。

自分ひとりの視点からは

「妥協の産物」にしか見えないことが

量産されてしまう世の中。

 

それに、自由を尊重するということは
感覚も価値観もやりかたも全然違う

他人の自由をも認めることで、

それにも忍耐が要る。


たとえば悪魔なら、
無礼な不良少年をスマートに葬れるが
(正直、かっこよかったっす 笑)

天使が思うようにならない相手を
怒鳴ったり殴ったりしたら、
それはもはや天使ではないわけで。


ストレス溜まる、忍耐の要る、
ある意味カッコよくないものが、

理想、良心、正義といったものの

本当の姿なんだろうと思う。



なく今日はカイロプラクティック、
明日は歯科通院。
時間が厳しくなってきました…

 

くま …続くといいな。(笑) さそり座