イェシリーはソルーシュしか知らずに育った。
彼女が知るのはこの象牙色の部屋と、扉のない出入り口から出られる中庭だけだった。庭の四方には石造りの壁があり、アーチ型の門には青い扉がはまっている。黒と銀の金属でいかめしく装飾されてはいるものの、押せば開けられるのかもしれなかった。けれど、なんとなく、イェシリーはその扉を開いてみる気になれなかった。
それでもソルーシュの言葉の端々から、この壁の向こうの広い場所にはいろいろなものが存在することが察しられて、すべてのこどもが未知のものへの好奇心を持つとおり、イェシリーも、そんな何かに会ってみたいと思っていた。
ソルーシュに渡された黄水晶を握りしめたとき、イェシリーは自分が大きくひろがるのを感じた。光と音のない共鳴を追って水晶の中へすべり込みながら、成長した、未来のうちのひとつの姿で大空に放たれていた。ソルーシュの言葉に聞き入りながら、その言葉から想像するまだ見ぬものに心奪われる感じに似ていたが、それよりはるかに強烈な感覚だった。
イェシリーは解放に酔い、酔うほどに自分が速度とちからを増して強大なものになってゆく気がした。
行き会った見知らぬ何かも、その時の彼女にはいたずら心に似た好奇心をあふれさせただけだった。
だが、いきなり現れた「自分でもソルーシュでもない存在」はイェシリーを混乱させ、不意に彼女を幼いこどもに戻してしまった。こどもの体にはるかに大きなものの疲労が押し寄せたようで、ぐったりとクッションに寄りかかったイェシリーの耳には、ふたりの会話もほとんど聞こえなかった。
けれども、豚が口にしたひとつの言葉が彼女の中の何かに引っかかった。
「娘ってなあに?」
にらみ合っていたソルーシュと豚がそろってこちらを見た。そして豚は鼻面にたっぷりのしわを作ってソルーシュを見上げ、
「何もかも知らなさすぎだわ。この子をどうするつもりなの。普通の言葉が理解できないんじゃ、話もできないじゃないの」
それが癖でもあるのか、横柄な口調で言った。ソルーシュの白い頬にうっすらと血の色が昇るのを、イェシリーは不思議なものを見るような気持ちで見つめた。
ソルーシュが答えないので豚はうんざりしたように首をふり、イェシリーのほうへ向き直って、
「あたしはマニン。あんたのお母さんの友人よ。と言ってもわからないか」
と話しかけ、歌うような笑うような調子で鼻を鳴らした。
「そうそう、さっき言ってた飛んでるものだけど。もうじき来ると思うわよ。天気が悪くて遅れてるみたいね」
「天気?」
小首をかしげるイェシリーに豚の目がさらに細くなった。
「ちょいと、ついといで」
マニンは巨大なからだを持ち上げ、出入り口へ向かってとことこ歩き出した。イェシリーはとまどってソルーシュを見上げたが、彼は反応を見せなかった。マニンは戸口で待っている。イェシリーは立ち上がり、豚と一緒に表へ出た。
中庭には多くの植物が植わっている。貴重な薬草もあった。しかし、あるべき庭園の美とはどこか異なる、乱調とでも言いたいようなおかしな庭だった。マニンは不機嫌そうに庭を横切り、自分が入ってきた門へイェシリーを導いた。
「わあ…」
マニンが押し開けた門の外は果てしなくひろがる水面、イェシリーが初めて見る「海」だった。彼女の住まいは海に浮かんでいたのである。
イェシリーは黙って海を見つめた。どれもこれも、何と呼べばよいのかすらわからなかったからだった。
そして、実は誰であっても言葉を失い呆然とするような光景がそこにはあった。おだやかに光とたわむれる波は門の外100ヤール(約31メートル)ほどまでで、その先は唐突に荒れ狂う波がぶつかりあっている。北方の青灰色の空ながら陽光に満ちた空も同じくいきなり途切れ、鈍色の雲がちぎれてはのたうつ嵐の空に変わっているのだった。
「これが天気。いいのと悪いのと、両方だね。あんたは護られているんだよ」
マニンの言葉の意味を尋ねようとしたとき、ずぶ濡れの大きな鳥がよろよろとおだやかな空の下へ飛び出してきた。マニンが大きく鼻を鳴らした。鳥は半ば墜落するようにイェシリーの肩先へ降りてきたが、上手く掴まれなかった足の鋭い爪がイェシリーの肌を浅く裂いた。
「ヒューギン、気をつけなよ。この子の同居人はうるさいからね」
マニンが手厳しく言った。イェシリーはヒューギンも応えてしゃべるのだろうかと思ったが、大鷹は話せないようだった。そのかわり、彼はイェシリーの目を覗き込んだ。
イェシリーの目に、色と光がたわむれるうつくしい草原が映った。ここに降り注ぐよりもはるかに明るく、白く透き通る陽光、色とりどりの花々。そして、薄青い輝く宝石、いや、何かの、誰かの瞳。
夢見るように開いたイェシリーのてのひらに、大鷹はくわえてきた白い小さな花をそっと載せた。
明日に続きます
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