映画にはスカーレットを表す象徴的な場面があります。
南北戦争開戦のどさくさまぎれに結婚した最初の夫はすぐに戦死し、彼女は寡婦となりました。
ついこの間まで社交界の花形としてちやほやされていたというのに、今や喪服を着て隅っこに控えていなくてはならない。夫をひとかけらも愛していなかった彼女は、自分の立場の変化だけを嘆きます。
ここの言葉の使いかたはとても面白いと思うので、ちょっと寄り道しますが、実家での寡婦暮らしにストレスマックスになったスカーレットが母エレンに嘆くところ。
彼女は「(華やかな独身時代は過ぎて、おまけに寡婦なんかになって、こんなに全然遊べないなんて)わたしの人生は終わってしまったわ」と()内を巧みにぼかして話します。
良心的なエレンは「(愛する夫を失って)わたしの人生は…」と受け止め、若くて思いつめすぎているのだと考え、彼女をアトランタへ出してやる気になるのです。
このやり取りから見るに、スカーレットは、自分の素直な考えをぶちまければ母には認められないとすでに知っています。
ただただ喪服を着けて閉じこもっていろと強制しないだけ、やはりエレンは慈悲と理解のある母です。しかし、浅慮で形だけ押しつける相手には簡単に反抗できますが、こうまで隙のない目上の人というのはむしろ逆らえない。
ともに俗に落ちてくれない大人は重圧感抜群です。対するのが子どもだと、相手の考えと合うのか相違してしまうのかだけに焦点がいってしまい、ぼかしたりわざと意味を重ねたりして嘘ぎりぎりの微妙な物言いをする子も出ます。
この時のスカーレットは17歳くらい、当時としては結婚適齢期で現代よりは大人だったはずですが、彼女はまだ母の圧倒的な影響下にあるようです。
さて、都会アトランタでは戦費を捻出するためのバザーやパーティが数多くおこなわれていて、確かに華やかでしたが、しょせん彼女は寡婦。楽しげな舞踏会場でも、指をくわえて裏方に回るしかありません。
そして、真っ黒な喪服姿でバザーのブースに押し込まれ、仏頂面を下げたスカーレットは、他人に見えないカウンターの下では忙しくダンスのステップを踏んでいます。
他の人に見える上半身は喪服の寡婦、見えない下半身はダンスに夢中。
ひとつの身体なのに本音と建前でバラバラに動いている、映画の演出としてはコミカルな部分なのでしょうが、図らずも彼女の深部を描き出してしまったように見えます。
自分の見栄にも、矛盾にも、それが珍妙な行動につながっていることにも、スカーレット自身は無自覚であることを含めて。
明日は休みます