公家平家である時子の弟が発した「この一門にあらざらむ者はみな人非人なるべし」という言葉には、宮中での出世競争にしか注意がいかない貴族らしさが漂っています。

個人的には、時めく「この一門」であることの自慢の他に、どことなく武家平家の伸張に対しての皮肉というか、立場が逆転した自分たちの自虐や微かな不快感のようなものも感じます。


言葉にこめられた念が嫌なものだからこそ、この言葉だけが目立って独り歩きしたのではないかな、と。


逆に、上流貴族たちの牙城に「人非人」から初めて乗り込み、嫉妬と悪意にさらされていたであろう清盛ならば、下位の者にもやさしかったという逸話のほうが納得できます。

そういえば「悪左府(あくさふ=悪い左大臣)」と周囲に嫌われるほど、真面目で正義感が強すぎた藤原頼長(ふじわらのよりなが)が、清盛の父・忠盛の人柄を絶賛していたのだとか。

頼長の厳しすぎる判定にも適う父を見て育った清盛が、そんなに無思慮な人間に育つとは考えにくい気がします。



農民から関白にまで昇りつめた秀吉は “庶民のヒーロー” と受け取られることが多いのに、その4百年ほど前、当時は身分が低かった武士から太政大臣にまで出世した清盛は悪鬼のように言われる。どうもおかしいと思います。

実は、実資の反感が意図せずにじみ出た(と思われる)道長のケースとは異なり、『平家物語』では意図的に話を作っている部分すらあります。

 

傲然と愛人を取り替え、心ない扱いをしたというので有名な「祇王と仏御前」については、実在が確定していません。実在したとしても、在京時期が違っているなど矛盾点が多く、少なくとも各人のふるまいなどの細かい記述は虚構と見るべきでしょう。

また、清盛の息子・重盛が、市中でケンカになった相手へおこなった感情的かつやり過ぎの報復を「清盛の行為」としてあります。これは完全な事実の歪曲です。

 

(清盛は息子のケンカ相手をわざわざ出世させています。

行き過ぎた報復への詫び心だったという説もあり、

事実は真逆と言っていいでしょう)


 

さて、ここで『平家物語』を見直してみましょう。作者は不詳ながら、九条兼実(くじょうかねざね)にゆかりのある人物と見られているようです。

 

九条は一種の通称で、本名は藤原兼実。平家にあらずんば…どころか、最上流の家系はみな藤原氏ですから、住所などで呼び分けたのです。

 

道長の子孫である兼実の家系は、天皇に代わって政務を執ることができる「摂関家」。彼らの身内での権力闘争もまた、この時代に争乱を呼んだ原因で、兼実は源頼朝(みなもとのよりとも)の推薦によって重職の座に就きました。

 

 

ご存知のとおり、頼朝は父親と共に清盛と戦い敗れて伊豆に流された、源氏のトップです。

若い頼朝を死刑にせず、ただ伊豆に流して済ませたのは、清盛の思いやりだったとの説もあります。それがアダになったからこそ、死を前に「我が墓前に頼朝の首を供えよ」と遺言するほど口惜しかったのでしょうね。

そこを考えると、ひどいのは頼朝のほう…って感じがしませんか?

ちなみに、頼朝が敵対者の子を赤児に至るまで決して許さなかったのは、自身の体験の裏返しだと言われています。



前の “王者” を滅亡させ、次代の “王者” になった。そんな新政権の初めは不安定ですから、たいていは前の政権の欠点を並べて新政権を正当化し、前政権打倒を支えた味方たちの結束を図ろうとします。

特に頼朝の場合、恩を仇で返した感があって、ますます平家・清盛に悪役になってもらう必要があったと思われます。

清盛の人柄について「若い頃は謙虚で思いやり深かったけれど、出世とともに傲慢になった」と、まさしく「驕れる平家」そのままの記述をしている書物もありますが、これまた書き手が兼実の弟。

なんだか、語るに落ちた気がします。



既得権を侵された上流貴族の不快感を通して見れば、平家は生意気な連中だったでしょう。彼らと対立した陣営から見れば、憎くてならない連中だったでしょう。その感情の上に次政権の都合が乗って、意図的な「イメージ操作」までおこなわれた。

それが千年近く残り、未だ拭いきれないとするなら、怖い話です。

 

 

 

 

 

 

くま 疲れてひと言を忘れそうです しし座