昨日は夕方から雨になりました。
ちょうどコメントのお返事をして、ブログのための写真整理を始めた矢先。降りだした途端、なぜか急激にだるくなってしまって、どうにもこうにも、ブログを書く気力も根こそぎ…って感じでした。


今日は早朝から目が覚めて、歴史のあれこれを思い浮かべるうち、いくつか思いついたことがあるので、件(くだん)の写真は先延ばしにして、そちらを書きます。



平安中期、藤原氏全盛の時代に君臨した政治家・藤原道長(ふじわらのみちなが)というと、どんなイメージをお持ちでしょうか。

この世をば 我が世と思う 望月の 欠けたることも 無しと思わば
(この世は我がもののようだと思われる、満月のように何も足りないところがないのだから)

上記のように解釈される歌のせいで「若年・病弱の天皇を押さえつけ独裁を布いた、傲岸な貴族」のイメージが一般的かと思われます。

この見かたがベースにあるためか、平安きっての恋上手・和泉式部(いずみしきぶ)を「浮かれ女」とからかったことに関しても、上から目線の嫌味と受け取る人も多いようです。

道長は本当に傲岸不遜で驕り高ぶった人物だったのでしょうか。

 

 

 

当時は、男性が各自の家で待つ妻たちの許へ通う「通い婚」でした。ざっくり言えば「多夫多妻」、特に訪ねる側の男性は自由が利くので『源氏物語』の光源氏のごとく、カネと権力のある道長のような人は多数の妻を持つのが普通です。

ところが道長には二人しか妻がいませんでした。その二人の妻を大切にしていたらしく、彼は世間から「まめ人」と呼ばれたそうです。

この「まめ」、漢字では「忠実」と書きます。現在でいう「まめな人」も、怠らず真面目で細やかであることを指しますが、古語では殊に「誠実」の意が強くなります。

もちろん、女性に誠実だからといって善良な人とは言い切れませんが、財産こそ女系相続とはいえ、社会活動する男性がいなくてはどうにもならない時代。弱い立場の女性を踏みつけにすることのない人間が、片面ではただ横暴なばかりの権力者であったとは考えにくい気がします。

ちなみに、彼の妻のひとりはすでに没落した家の娘でした。



また、和泉式部は彼の娘に仕える女房(=侍女)。本来なら、道長は彼女を相手にしなくてもいい立場です。

 

平安貴族の権力は、自分の娘を天皇に嫁がせて子を生ませ、その孫に当たる子が天皇になることで確定しました。

 

女性だけの後宮では、娘の側近く仕える女房が重要な “戦力” です。天皇を応接する彼女たちが阿呆だったり、仕えた家に敵対する気持ちがあってはたいへんなことになります。

 

そのため、上流貴族は中流以下の才能ある女性をスカウトして娘に付け、場合によっては性的関係を持って味方にしました。

 

(誤解のないよう書いておくと、当時の性的モラルはゆるゆるで、

それっぽい雰囲気になれば共寝するのが当然…くらいの感覚です)

 

 

とはいえ、『枕草子』で有名な清少納言(せいしょうなごん)は、道長の兄の娘に仕えた女房ですが、道長の兄が女房たちにも冗談を言ったりするのを、気配り上手で好ましい人柄の主として描写しています。

 

そこから量るに、女房たちへの気配りが足りない人も多かったのでしょう。

 

今ならセクハラみたいな道長の言葉も、当時の感覚でいけば、少し嫉妬しているかのような思わせぶりな冗談で和泉式部を楽しませている、気さくな一面の現れとも考えられるのです。

 

 

 

 

 

 

くま 長くなったので分割します しし座