昨日の歌詞を翻訳してる時、塩野七生氏の短編集を思い出しました。
『サロメの乳母の話』という本で、歴史・伝説上の有名人を身近な人の視点から、世上知られている人物評をくつがえすように書かれた物語たち。
たとえば表題作のサロメは、乳母の目を通して、政治的に苦しい立場にあった義父と母を助けるため、異様なおねだりに見せかけて王家の敵・ヨハネを殺させた、思いやり深く聡明な女性として描かれます。
(サロメの伝承の過去記事はこちら★)
その短編集に、イエス・キリストと母マリアの関係を弟の目から描いた1編があります。
マリアはごく普通の母親として、生業を投げ出し家出して当時のユダヤ社会に挑戦する息子を心配し続けます。心痛と苦悩と哀しみを抱える母を、神聖受胎などではなく父母の愛から生まれた弟はやさしく支えます。
しかし、神の子・イエスはもっと高次の理想しか視界にありません。やっと故郷へ布教に来た息子に一目会おうと出かけたマリアと同伴した弟が浴びた言葉は印象的でした。
大勢の聴衆に押されて近づけずにいるマリアたちのために「あなたの母と弟が来ていますよ」と親切な人が声をかけてくれます。道を空けてもらってほっとしたのもつかのま、
「わたしの母とは誰のことか。わたしの兄弟とは誰のことか。わたしの母、わたしの兄弟とは、神の御言葉を聴いて、それを行う人すべてである」
これは塩野氏の創作ではなく、聖書に残っている状況と言葉です(ルカ8章21)。
信徒の立場で聖書で読めば、美しい言葉でしょう。でも、彼を心配し続け、やっと会えると思って飛んできた家族に浴びせる言葉でしょうか。
塩野氏は、弟の感想として「あれほど、他人には愛を説く兄なのに」と書いておられます。
昨日の歌詞を訳しながら、この小説の作者が女性であるのがとても納得できる気がしました。
大所高所の見地を持たないと言われればそれまでですが、それでは、理想しか見えていないヒーロー、身近な人の涙や苦しみを視界に入れないヒーローの「見地」はどうなのでしょう。
Just something I can turn to=「頼りになるものを持っている」と稚拙な訳になりましたが、信頼でき、安心させてくれる何ものかこそ、歌詞の女性の求めではないかと思います。
たくさんの母君や夫人が泣いたのだと思う