以前から、義経と頼朝の問題について、わたしは「義経が頼朝に成り代われるはずがなかった」と考えています。
ボロ負けした濡れネズミであっても(しつこい 笑)頼朝が「お飾り」になり得たのは、彼が義朝の「嫡男」であったからこそ。
嫡男とは正式に後継ぎとして認められている男子で、本人の能力や生母の身分などが考慮され、必ずしも年長者がなれるものではありませんでした。
現に頼朝にはふたりの兄がいますが、そのどちらよりも頼朝は官位が高く、当時の人ならば「ああ、この三男どのが義朝様のご嫡男…」と合点できたことでしょう。
以前にも書きましたが、義経の母・常磐(ときわ)は「雑仕女(ぞうしめ)」つまり下女身分。熱田大神宮の宮司の娘(藤原氏)を母に持つ頼朝と並び立てるものではありません。
※頼朝の似顔絵。切り絵ブログ「キリヌケ成層圏」http://kirinuke.com/様から借用。
能力主義的な感覚は戦国時代まで待たねばなりません。その中でも、よほど人材に困った家中だけでしょう。いわゆる「下克上」が完全に機能しているのは、たいてい急激に伸びて人材が足りない “出来星大名” のところですから。
身分・家柄・血統というのはそれほど絶大なものだったということです。
そこで「飾り」を担ぎ上げるほうの視点で見てみましょう。
自分たちも豪族として土地では尊敬され、世間でも敬意を持って遇されている。そのプライドを抱えつつも頭を下げられる、そのプライドを以てしても満足できる「お飾り」と思えば、源氏の直系以外なかったと思います。
東国最大勢力ともいわれた畠山氏を潰して「北条トラスト」内の「牧の方・平賀派閥」は我が世の春と思いきや、いつのまにか「先妻の子派閥」へと武士団の支持が移っていて、一気に失脚しました。
嫡男・義時の交渉力でしょうが、そのテコには「義朝の嫡孫である実朝ではなく、平賀一族に頭を下げる…でいいのか」という不快感もあったのではないか。そんなふうにも考えています。
※義時の似顔絵。切り絵ブログ「キリヌケ成層圏」http://kirinuke.com/様から借用。
「畠山の乱」から時政失脚へ、それまでほとんど目立たなかった義時の水際だった権力闘争デビューもさることながら、三浦氏の動きも面白いものがあります。
実は、時政の命により重保を暗殺したのは義村でした。そして言われるまま支族である和田ともども出兵し、重忠を討ち取ります。そのくせ義時の弾劾には真っ先に乗り、一緒に畠山氏の分家を討ち果たしています。
これまた私見ですが、やはり鎌倉の喉元に迫る三浦氏の「地の利」を北条の各人が意識していたため、何かと義村に声をかけたのではないでしょうか。
重保を討ち取らせた時政は「三浦は我が方にあり」と安心していたでしょうし、おそらく義時も、最終的には義村が「畠山分家攻め=時政の行動は間違い」に同調したからこそ、父を追い落とす計画を実行に移せたのではないかと思います。
ひたすら身を慎んだ父・義澄に対し、義村は時に恐ろしい切れ味を見せます。梶原景時を没落させたのも彼でした。
よくいえば無邪気、悪くいえば単細胞の和田義盛(義村の従兄弟)は、その時その場の思うままを口にしている印象ですが、義村は準備が整わないまま意を洩らすような人物ではないようです。
二度の “仲間割れ” を生きのびた「北条トラスト」のメンバー、とりわけ義時は、父の隠忍と息子の怜悧により和田勢力を含む三浦一族がほぼ丸ごと残っていることに脅威を感じたことでしょう。敵の手強さを痛感したはずです。
ついに、したたかに政争をくぐってきた北条氏と三浦氏が直接ぶつかる日がきました。しかし、その結末は意外なものでした。
義経は美形すぎたので割愛しました(笑)。 
ボロ負けした濡れネズミであっても(しつこい 笑)頼朝が「お飾り」になり得たのは、彼が義朝の「嫡男」であったからこそ。
嫡男とは正式に後継ぎとして認められている男子で、本人の能力や生母の身分などが考慮され、必ずしも年長者がなれるものではありませんでした。
現に頼朝にはふたりの兄がいますが、そのどちらよりも頼朝は官位が高く、当時の人ならば「ああ、この三男どのが義朝様のご嫡男…」と合点できたことでしょう。
以前にも書きましたが、義経の母・常磐(ときわ)は「雑仕女(ぞうしめ)」つまり下女身分。熱田大神宮の宮司の娘(藤原氏)を母に持つ頼朝と並び立てるものではありません。
※頼朝の似顔絵。切り絵ブログ「キリヌケ成層圏」http://kirinuke.com/様から借用。
能力主義的な感覚は戦国時代まで待たねばなりません。その中でも、よほど人材に困った家中だけでしょう。いわゆる「下克上」が完全に機能しているのは、たいてい急激に伸びて人材が足りない “出来星大名” のところですから。
身分・家柄・血統というのはそれほど絶大なものだったということです。
そこで「飾り」を担ぎ上げるほうの視点で見てみましょう。
自分たちも豪族として土地では尊敬され、世間でも敬意を持って遇されている。そのプライドを抱えつつも頭を下げられる、そのプライドを以てしても満足できる「お飾り」と思えば、源氏の直系以外なかったと思います。
東国最大勢力ともいわれた畠山氏を潰して「北条トラスト」内の「牧の方・平賀派閥」は我が世の春と思いきや、いつのまにか「先妻の子派閥」へと武士団の支持が移っていて、一気に失脚しました。
嫡男・義時の交渉力でしょうが、そのテコには「義朝の嫡孫である実朝ではなく、平賀一族に頭を下げる…でいいのか」という不快感もあったのではないか。そんなふうにも考えています。
※義時の似顔絵。切り絵ブログ「キリヌケ成層圏」http://kirinuke.com/様から借用。
「畠山の乱」から時政失脚へ、それまでほとんど目立たなかった義時の水際だった権力闘争デビューもさることながら、三浦氏の動きも面白いものがあります。
実は、時政の命により重保を暗殺したのは義村でした。そして言われるまま支族である和田ともども出兵し、重忠を討ち取ります。そのくせ義時の弾劾には真っ先に乗り、一緒に畠山氏の分家を討ち果たしています。
これまた私見ですが、やはり鎌倉の喉元に迫る三浦氏の「地の利」を北条の各人が意識していたため、何かと義村に声をかけたのではないでしょうか。
重保を討ち取らせた時政は「三浦は我が方にあり」と安心していたでしょうし、おそらく義時も、最終的には義村が「畠山分家攻め=時政の行動は間違い」に同調したからこそ、父を追い落とす計画を実行に移せたのではないかと思います。
ひたすら身を慎んだ父・義澄に対し、義村は時に恐ろしい切れ味を見せます。梶原景時を没落させたのも彼でした。
よくいえば無邪気、悪くいえば単細胞の和田義盛(義村の従兄弟)は、その時その場の思うままを口にしている印象ですが、義村は準備が整わないまま意を洩らすような人物ではないようです。
二度の “仲間割れ” を生きのびた「北条トラスト」のメンバー、とりわけ義時は、父の隠忍と息子の怜悧により和田勢力を含む三浦一族がほぼ丸ごと残っていることに脅威を感じたことでしょう。敵の手強さを痛感したはずです。
ついに、したたかに政争をくぐってきた北条氏と三浦氏が直接ぶつかる日がきました。しかし、その結末は意外なものでした。

