
どうも「封建」という言葉はイメージが悪いようです。
これは「封土を分けて諸侯を建てる」という意味で、君主に対する奉仕義務の代償として君主が臣下に領土を分け与え、その地の領主(侯)にすること。
君主と特権階級(貴族や僧侶、武士・騎士など)の関係でいえば、とにかく君主がすべてを独占する絶対君主制よりもソフトな気がするのですが。
日本では鎌倉政権を以て「封建制」が始まったとされます。日本的にいうと「御恩と奉公」の制度です。
御恩とは、辞書によれば【封建時代、主君が臣下に与える恩恵で、特に恩地の類】。つまり領地です。これに対し、臣下は主に軍事に関わる「奉公」をするわけです。
先日「貴族の使用人」と書きましたが、それはかなり差別的であり不当なものでした。貴族社会は当時の武士たちにとってブラック企業だったのです。
※鎌倉勃興期の “ブラック企業” 元締め・後白河法皇。趣味は流行歌を歌いまくること。
働いたぶんは給料をくれ、というごく当たり前な要求を満たしたのが鎌倉式「御恩と奉公」。手柄を立てれば報酬がある。この喜びゆえに高度成長期の日本人が稼ぎまくったように、この時代の武士たちも稼ぎまくります。
恩賞(報酬)目当てというと不潔に感じる方もあるようですが、わたしは健康な精神だと思います。土地に「一所懸命」、目の色を変える武士たちの心情がわからなくなった貴族たちのほうがよほど不健全です。
歴史家が指摘なさるのは、鎌倉政権の「御恩と奉公」が非常に組織的であること。封建制の【封土の授与と軍務の奉仕に基づいた主君と家臣との間の主従関係が、国王・領主・家臣に至る社会の支配者層内部に階層的にみられる】という部分です。
超ざっくり言うと、とある武士の手柄はその主人のものとなり、その主人の主人のものとなり…やがて頼朝に届く。そして頼朝→主人の主人→主人→とある武士という形で領地が分けられてゆく。
もちろん、個々では弱い武士たちを主人たちは守護してもいるわけで、少し乱暴なたとえですが、各々できるだけの元手を持ち寄ってチームでもうけて、投資額に合わせて報酬を分けていく感じでしょうか。
せいぜい血族のまとまりしかなかった平安の武士に比べ、こうしたチームが階層的、つまり重なって幾重にも続き、班→組→学年→学校のように連なっている。この緻密な組織力とシステマティックなやりかたこそが鎌倉の特色です。
木曾義仲を攻めるため出兵した時から総大将・頼朝は鎌倉で留守を守るようになりますが、ここにもシステムが持ち込まれます。頼朝の代わりに軍事の長を務める者のほかに「眼代(がんだい)」と呼ばれる代官が任命され、全軍の働きを報告したのです。
「眼代」とモメた武将に対して書かれた頼朝の手紙には「そなたごときはただ戦場に行って奮戦すればよい」とあり、頼朝は、公平かつ実直でシステム維持の役割を果たす人材をより重く見ていたフシがあります。
ちなみに、梶原景時の “讒言” とされるものも、義経に対する「眼代」としての役目のものでした。もうひとつ言い添えると、彼の報告書には他の武士たちの落ち度も満載で非常に憎まれましたが、調査ののち間違いであったとして罰されたのは1度きり。
鎌倉政権は組織重視なだけに「公平」に関して甘くありませんが、その精査を受けても恥じるところのなかった人…というわけです。
出兵のちの義仲・平家滅亡から義経の退場まで、少し長くなりすぎたので、ここで分割します。三浦氏の話に戻るまでに、もう少しだけ時間をください。

