平家は海運で財を成した水軍であったと聞きますが、一族の切所では、海はあまり彼らの味方になってくれなかったように思います。

伊豆で挙兵に失敗した頼朝は海路で房総へ逃れて巻き返し、ついに鎌倉に独立政府を開きます。そして追い落とされた平家は瀬戸内で大敗し、やがて関門海峡・壇ノ浦で滅亡の時を迎えたのですから…



どこから語り起こしたものかと思いましたが、昨今は日本史を学ばないまま学業を終えることができるのだとか。とりあえず、ざっくり日本という国の流れをたどってみましょう。

まず、神話と渾然一体となった大和朝廷の伸張があります。天皇とその家臣団が日本の広い地域を支配するようになった時代。神話をただ現実の反映とだけ見るのはつまらないけれど、国つ神や土着民を平らげて支配地をひろげていく姿はおおよそ事実でしょう。

神武帝


国が拡大するには大きな勢力を持つ氏族を従わせることもあり、また、天皇の権威が上がるとともに家臣たちのチカラも増していきます。超ざっくり言って「国が土地を貸し民に耕させて税金を取る」古代の天皇中心システムは、チカラを持った貴族たちが土地を私有するようになって崩壊しました。

額田王


このあたりから大貴族が中心となった政治が始まります。日本では天皇の「権威」は常に絶対だったので、その下で政治をおこなう権利、実際の「権力」を大きな氏族や皇族が争いました。

道長


こうした中から、大貴族を守ることで生計を立てる下流の貴族が生まれます。これが武士です。

武士




平安を目指し、変事がないことを示すための儀式に明け暮れた時代も、現実の破綻に追いつかなくなって揺らぎ始めます。自然現象による飢饉などのほかに、私見ですが、土地の所有権が複雑で、末端で争いが絶えなくなったことが要因であると思います。

大貴族の権威が効いているうちは、末端でも承伏したでしょう。しかし中央での権力争いでエラかった人が潰れてしまうようなことをくり返していると、地方末端では力づくの解決が起きてきます。そして「やれてしまった」末端の地方武士たちは、もはや中央の貴族を必要としなくなります。

こうして、今まで使用人のように貴族に仕えてきた武士がチカラと意志を持ち始めた頃、天皇や上皇(生前譲位した元天皇)を含めた権力争いがついに武力衝突として現れます。これが「保元(ほうげん)の乱」で、武士の持つチカラを見せつけたものとなりました。
<保元の乱についてくわしくは「保元の乱1」「保元の乱2」へどうぞ>


この時、天皇側について一緒に戦ったのが頼朝の父源義朝(みなもとのよしとも)平清盛でした。

やがて両者は対立し「平治(へいじ)の乱」が起こります。源氏平家の争いの始まりであり、勝った平家は「平家にあらずんば人に非(あら)ず」と言われるほどの盛運を迎え、敗れた源氏は罪人として扱われます。

ちなみに、この「平家にあらずんば…」の「人」は「人並みの身分の人」のことで、平家の人間でないとまともな出世ができないという程度の意味です。


というところで…
おつきあいの長い方は「またか」とお思いでしょうが、渓美居堂得意の「肝心なところにたどり着く前にいったん切ります」パターン(笑)、長くなったので明日に続きます。



見猿 だって、新たな社会の始まりだもの。 言わ猿