『万葉集』編纂者のひとり大伴家持が率いた大伴氏は、大和朝廷に仕える有力氏族であり、古くからの忠実な家臣でした。
しかし、大和朝廷の勢力が拡大するにつれて、各地の豪族の “抱き込み” が重要になってきます。
侮れない独立勢力を平和裡に臣従させるには婚姻作戦が一番。蘇我氏のような有力豪族は通婚によって天皇の近親者となります。対して家臣である大伴・物部氏などは相対的に地位が下がりました。
しかし軍事力を持つ彼らは新興勢力には危険だったのでしょう。物部氏に至っては宗教問題にこと寄せた戦によって、蘇我氏(及び、その血を引く天皇)に滅ぼされています。
家持の時代はそれよりさらに二百年ほど下り、すでに蘇我氏も没落し、古代最大の内乱「壬申の乱」を経て、藤原氏が強引に勢力を伸ばした頃。
時々書いている、皇位の継承が乱れ、皇族の一部(蘇我氏の残映でもある)と勃興する藤原氏が激しく争い、その底流には天武天皇系と天智天皇系の血統対立もあり、政争がくり返された時代です。
大伴氏はそれなりに政局を泳いで高級官吏の地位を留めていましたが、父の旅人が大宰帥(だざいのそつ=九州長官)として遠方へ下向するようでは、もはや「多くの官人を率いた天皇の親衛隊長」の面影はないと思います。
そして、ここからは海彦さんの記事に刺激を受けたわたしの想像ですが…
家持の生前から大伴氏は多くの処罰者を出します。彼らにもすべり落ちていく一族の姿が予感できていたのではないか。もちろん政敵の計略による冤罪もあったでしょうが、焦燥感と “追われる者の正義感” が彼らに出口を探させた気がします。
もちろん家持も同じだったでしょう。武の家の頭領らしく種々の政争にも敢然と立ち向かった形跡がみえ、その武人としての激情もまた、彼の詩心に寄与していたように思えます。
腑甲斐ない現状と未来を口惜しく思うほど、より鮮鋭に清らに “あるべき姿” が見えてくる。いま現実に軍事の長でない彼が抱く憧憬にも似た思いゆえに、家持の防人たちを見る目は美しさを増したのではないか。
そして身は上級の貴族であっても、その満たされない思いゆえに、名もない東国の人々への同情も深かった。傲然と権力の座から睥睨する者を憎むゆえに、素朴の美を喜ぶ気持ちも深かった。普通に見れば拙い(現に、役人が手直しした歌もある)東歌を多く収集したのは、こうした心情もあったのかもしれない…と。
死の直後に起きた暗殺未遂事件のため、家持は官位を剥奪されます。のちに赦免されますが、同じ事件で流罪となった息子の生死すら不明。
やがて伴(とも)氏と改名した一族は上流貴族の座を失い、最後には “伴大納言” こと伴善男(とものよしお)の「疫病神」伝説すら残ってしまいました。
<伴大納言については過去記事「漆の日」へどうぞ>
世は悲しけ。 
しかし、大和朝廷の勢力が拡大するにつれて、各地の豪族の “抱き込み” が重要になってきます。
侮れない独立勢力を平和裡に臣従させるには婚姻作戦が一番。蘇我氏のような有力豪族は通婚によって天皇の近親者となります。対して家臣である大伴・物部氏などは相対的に地位が下がりました。
しかし軍事力を持つ彼らは新興勢力には危険だったのでしょう。物部氏に至っては宗教問題にこと寄せた戦によって、蘇我氏(及び、その血を引く天皇)に滅ぼされています。
家持の時代はそれよりさらに二百年ほど下り、すでに蘇我氏も没落し、古代最大の内乱「壬申の乱」を経て、藤原氏が強引に勢力を伸ばした頃。
時々書いている、皇位の継承が乱れ、皇族の一部(蘇我氏の残映でもある)と勃興する藤原氏が激しく争い、その底流には天武天皇系と天智天皇系の血統対立もあり、政争がくり返された時代です。
大伴氏はそれなりに政局を泳いで高級官吏の地位を留めていましたが、父の旅人が大宰帥(だざいのそつ=九州長官)として遠方へ下向するようでは、もはや「多くの官人を率いた天皇の親衛隊長」の面影はないと思います。
そして、ここからは海彦さんの記事に刺激を受けたわたしの想像ですが…
家持の生前から大伴氏は多くの処罰者を出します。彼らにもすべり落ちていく一族の姿が予感できていたのではないか。もちろん政敵の計略による冤罪もあったでしょうが、焦燥感と “追われる者の正義感” が彼らに出口を探させた気がします。
もちろん家持も同じだったでしょう。武の家の頭領らしく種々の政争にも敢然と立ち向かった形跡がみえ、その武人としての激情もまた、彼の詩心に寄与していたように思えます。
腑甲斐ない現状と未来を口惜しく思うほど、より鮮鋭に清らに “あるべき姿” が見えてくる。いま現実に軍事の長でない彼が抱く憧憬にも似た思いゆえに、家持の防人たちを見る目は美しさを増したのではないか。
そして身は上級の貴族であっても、その満たされない思いゆえに、名もない東国の人々への同情も深かった。傲然と権力の座から睥睨する者を憎むゆえに、素朴の美を喜ぶ気持ちも深かった。普通に見れば拙い(現に、役人が手直しした歌もある)東歌を多く収集したのは、こうした心情もあったのかもしれない…と。
死の直後に起きた暗殺未遂事件のため、家持は官位を剥奪されます。のちに赦免されますが、同じ事件で流罪となった息子の生死すら不明。
やがて伴(とも)氏と改名した一族は上流貴族の座を失い、最後には “伴大納言” こと伴善男(とものよしお)の「疫病神」伝説すら残ってしまいました。
<伴大納言については過去記事「漆の日」へどうぞ>

