先日の《ひとこと》でチラと書いた「東歌(あずまうた)」について。

以前にも書いてますが、文字どおり、古代に「東国(とうごく)」と呼ばれた地域(北陸を除く近畿以東、愛知県や岐阜県から東って感じ)で詠まれた歌です。

東国西国(さいごく)は単なる「都会と田舎」ではなく、大和朝廷が東へ勢力拡大していった結果の「征服地」「植民地」が東国であると考えたほうがイメージ掴みやすいと思います。支配する国と支配される国だったわけです。


『万葉集』に収められた東歌の特徴としては、強い訛りがそのまま持ち込まれていること。そして文化程度の違いからでしょうが、突出した歌人ではなくたまたま編者の目に留まった無名の人の歌や、民謡的に歌い継がれた歌が採用されていることです。

この東歌の採用は主たる編者とされる大伴家持(おおとものやかもち)の意向が強く働いていたといわれます。これについて、わたしは長く中国文化の影響だと考えていました。

というのが、家持の父・旅人(たびと)と同時期に太宰府へ赴任し、ともに《筑紫(=九州)歌壇》を築いた山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌」は中国に源流を求めることができるからです。

「貧窮問答歌」は、貧しい庶民(貧者)と、生活に困っている庶民(窮者)が問答をする形で苦しさを訴える歌。けれど、中央から派遣された高級役人である憶良がそれほど生活に困るはずはありません。

憶良は遣唐使として中国に留学した経験があり、当時の中国では「文化人が貧民に成り代わって苦境を世に訴える」ような社会派の詩などが流行っていたようです。

それらと同じように「貧窮問答歌」は貧者・窮者の視点で詠まれており、唐文化の影響を受けて作られた歌だと考えられるのです。

まあ、西暦700年前後でこんな意識があるところが古代中国のすごさですが。


こうした最先端の感覚を父親を通して家持も学んでいたので、西国の普通の人々が見向きもしない東歌を拾い上げる気になったのではないか…とことん私見ですが、こういうふうに考えていたのです。


長くなったので明日に続きます。



見猿 悲しけ(悲しきの東国訛り)とか、なんとなく好き。 言わ猿