英国保守党党首選(事実上の首相選)、候補がふたりとも女性とは頼もしいと思っていたら、ずいぶんしょうもないことで勝負が決しましたね。
新首相となったメイ氏は子どもがなく、対立候補だったレッドサム氏は3人の子持ち。
9日付の新聞にレッドサム氏の「母親だからこそ、この国の未来について真剣に考えられる」といった発言が載り、子どものいない人を侮辱するものとして問題になりました。
まあ、「女性だから」とか「母親だから」ってことだけを売りにしてる女性政治家がほとんどの日本では違和感がないかもしれませんが、政治家という、社会全体の利益を考えるべき(あるいは、考えているように見せておくべき)人間が、こうも無思慮かつ無神経な発言をするとは。確かに首相の器ではなさそうです。
さらにレッドサム氏は「新聞が自分の発言を曲解した」と言い出し、新聞社にインタヴュー音声を公開される羽目に至ります。ある意味、誰かに責任を押しつけようとする態度は問題発言以上の大問題だと思いますが。
結局11日に彼女は選挙戦から撤退し、メイ首相が誕生しました。
さすが英国だなと思ったのは、レッドサム氏の発言を受けて「首相選挙が罵り合いで戦われることがあってはならない」という批判が相次いだこと。意味不明なまでの醜い罵倒合戦をくり返す某超大国とは違うなと思いました。
首相選挙だけでなく、すべてが罵り合いで戦われることがないといいのだけれど。
せっかくだから、某超大国も初の女性大統領が誕生して欲しいですね。ドイツの女傑・メルケル首相と合わせ、女性ばかりの首脳会談なんてのも見てみたい気がします。まあ、「女性ナントカ」と言ってる時点で、レッドサム氏の思考と大差ないことにはなっちゃいますけどね(笑)。
10年近い “自宅追放” の際、時間を無駄にするのが嫌でいろんな試みをしました。市民プールで腰のリハビリの真似ごとをしたり、博物館の資料庫にこもったり、静穏を求めて里山や農道をさまよったり…
でもやっぱり1番利用したのは図書館。大陸・半島の影響を受けていない、和語(日本固有の言葉)だけで構築された世界を書いてみたくて、素人ながらずいぶん言葉の勉強をしました。
現在、持ち物整理の一環としてその研究ノートの内容をPCに入力しているところです。10冊以上のノートも電子化すればフラッシュメモリ1本で済みますからね。
で、その作業中にふと目についたメモ。
「相手」という言葉は、中世(日本史では鎌倉・室町時代)以降の用例しか見当たらない、比較的新しい言葉…というものです。
平安時代以前は「カタキ」という言葉を用いていたと考えられ、その頃も「戦いの対象」とか「憎悪・恨みの対象」という意味もあったのですが、単にゲームやスポーツなどを一緒にやる人のことも「カタキ」と呼んだのだそうです。
これはまったくの私見ですが、カタは片方などのカタに通じる言葉で、自分とは違う片側にいる人…という表現だったのではないかと。
やがて「カタキ」には特に負の意味が強くなっていきます。これまた私見ですが、古代貴族社会の崩壊による社会不安と混乱、そして相次ぐ戦乱のため、言葉の含むものも荒んでいったのではないかと思います。
そして「カタキ」が明らかに「敵」を指すようになったため、その欠けたところを埋める形で「相手」という言葉が生まれてきたと考えられるのです。
そもそもは「一緒に何かをする仲間」という意味すらあったはずの言葉が「敵」になってしまう。英国の女性ふたりの顛末と合わせ、人間にひそむ何ものかを見てしまう思いがします。
(※色つき太字の部分は読売新聞オンラインからの引用です)
漢字が難しすぎて難航中(笑)。 
新首相となったメイ氏は子どもがなく、対立候補だったレッドサム氏は3人の子持ち。
9日付の新聞にレッドサム氏の「母親だからこそ、この国の未来について真剣に考えられる」といった発言が載り、子どものいない人を侮辱するものとして問題になりました。
まあ、「女性だから」とか「母親だから」ってことだけを売りにしてる女性政治家がほとんどの日本では違和感がないかもしれませんが、政治家という、社会全体の利益を考えるべき(あるいは、考えているように見せておくべき)人間が、こうも無思慮かつ無神経な発言をするとは。確かに首相の器ではなさそうです。
さらにレッドサム氏は「新聞が自分の発言を曲解した」と言い出し、新聞社にインタヴュー音声を公開される羽目に至ります。ある意味、誰かに責任を押しつけようとする態度は問題発言以上の大問題だと思いますが。
結局11日に彼女は選挙戦から撤退し、メイ首相が誕生しました。
さすが英国だなと思ったのは、レッドサム氏の発言を受けて「首相選挙が罵り合いで戦われることがあってはならない」という批判が相次いだこと。意味不明なまでの醜い罵倒合戦をくり返す某超大国とは違うなと思いました。
首相選挙だけでなく、すべてが罵り合いで戦われることがないといいのだけれど。
せっかくだから、某超大国も初の女性大統領が誕生して欲しいですね。ドイツの女傑・メルケル首相と合わせ、女性ばかりの首脳会談なんてのも見てみたい気がします。まあ、「女性ナントカ」と言ってる時点で、レッドサム氏の思考と大差ないことにはなっちゃいますけどね(笑)。
10年近い “自宅追放” の際、時間を無駄にするのが嫌でいろんな試みをしました。市民プールで腰のリハビリの真似ごとをしたり、博物館の資料庫にこもったり、静穏を求めて里山や農道をさまよったり…
でもやっぱり1番利用したのは図書館。大陸・半島の影響を受けていない、和語(日本固有の言葉)だけで構築された世界を書いてみたくて、素人ながらずいぶん言葉の勉強をしました。
現在、持ち物整理の一環としてその研究ノートの内容をPCに入力しているところです。10冊以上のノートも電子化すればフラッシュメモリ1本で済みますからね。
で、その作業中にふと目についたメモ。
「相手」という言葉は、中世(日本史では鎌倉・室町時代)以降の用例しか見当たらない、比較的新しい言葉…というものです。
平安時代以前は「カタキ」という言葉を用いていたと考えられ、その頃も「戦いの対象」とか「憎悪・恨みの対象」という意味もあったのですが、単にゲームやスポーツなどを一緒にやる人のことも「カタキ」と呼んだのだそうです。
これはまったくの私見ですが、カタは片方などのカタに通じる言葉で、自分とは違う片側にいる人…という表現だったのではないかと。
やがて「カタキ」には特に負の意味が強くなっていきます。これまた私見ですが、古代貴族社会の崩壊による社会不安と混乱、そして相次ぐ戦乱のため、言葉の含むものも荒んでいったのではないかと思います。
そして「カタキ」が明らかに「敵」を指すようになったため、その欠けたところを埋める形で「相手」という言葉が生まれてきたと考えられるのです。
そもそもは「一緒に何かをする仲間」という意味すらあったはずの言葉が「敵」になってしまう。英国の女性ふたりの顛末と合わせ、人間にひそむ何ものかを見てしまう思いがします。
(※色つき太字の部分は読売新聞オンラインからの引用です)

