このあいだの話に続けて『ハリー・ポッター』について書いてみようと思います。


正直、最初に読んだ時の感想は「何だ、これ?」。

いまどき魔法使いが杖を使い、ほうきで空を飛ぶとは陳腐を通り越している。出てくる魔法的生物の解釈にも目新しさはなく、誰もが思い浮かべる魔法の世界がそのまま、何のひねりもなく置かれているだけ…

海外ファンタジー文学をそれなりに読んできた者としては、世界観の構造が浅くイマジネーションの深遠さを感じることはできないものでした。ちなみに「陳腐(ちんぷ)」とは「古くさい、ありきたりでつまらない、くだらない」の意。

しかし、書き手の端くれとしてはショッキングな作品でもありました。

堂々と陳腐な設定を採用しつつ、たとえば “魔法界の子どもたちがほうきのニューモデルにあこがれる” など、なんとも現実感のある描写がある。幻想と現実を隔てることでロマンをかきたててきた、今までのファンタジーとはまったく違う方法論でローリング女史は世界を構築していたのです。

その意味では、陳腐どころか斬新な作品。さすがに “天から降りてきた” 物語ですね。



確か日本では『アズカバン』が出版された頃、欧州の批評を読んだことがあります。いわく「物語がハリーの視点に寄りすぎている。ハリーの味方が善人で敵は悪人と読める。こうした自己中心的な視点は子どもに悪影響をもたらす」。

こうした視点で展開する物語が多い日本では出てこない批評かもな、と面白く思いましたが、わたしはこの批評に否定的でした。

ハリーの初期は一種の “シンデレラ物語” になっています。つらい思いをして暮らしている子どもが、ある日、自分が特別な存在であると知り、秘めたチカラを解放して皆の “アイドル” になる。いくらか意地悪な存在はいても、もっと大きな存在が彼を常にひいきし、かばってくれる。

いわば《中二病》の実現。周囲を見返すカタルシスを満喫し、実は誰もが抱える孤独という “飢え” が満たされる、楽しい「子どもの黄金時代」でした。

しかし、3作目ですでに物語は暗さを帯び始め、世の中のままならなさもチラつき始めている。だとすると、最後まで読んでもいないものを批判できるものだろうか?と、わたしは思ったのです。

そして、思ったとおりに物語はひろがりを見せていきました。


幼少のハリーは自分にやさしく自分の味方である存在を丸ごと信じている。ハリーの場合は両親を知らないので、夢を託してますます理想化した部分もあったでしょう。しかし、成長するにつれ、父も、父の親友シリウスも、絶対善のように信じていたダンブルドア校長も、決して完璧ではないことを知ります。

そして、誰であれ一方的に憎むことはできないことも。

同時に、自分が決して “特殊” でないことをハリーは学びます。特に、ただの道化役と思われたネヴィル・ロングボトムが「もうひとりのハリー」であり、ある意味、より苛酷な人生を歩んでいたことには、わたしもハリー同様、頭を殴られたようなショックを受けました。


ひとりの子どもが成長し、やがて幼少期のように「大将」ではいられなくなり、世間の都合で理不尽に扱われ、それに苛立って時に愚かな真似をしつつも、少しずつ視野を広げていく。

ハリーの視点に寄りすぎていたのはローリング女史の計算だったのでしょう。整った英雄から教条的に説教されるのではなく、ハリーになりきって「どうしてなんだよ」とか「そうだったのか」とか、起きてくることを追体験できる。

それこそが『ハリー』の読みどころであり、すぐれた児童文学であると思う理由です。



書き始めたら、思っていたよりいろんなことを感じ取っていました。明日に続きます。



見猿 ハーマイオニー大好き♪ 言わ猿