昨日はツブれてしまって申し訳ないです。ご心配いただき、ありがとうございました。



さて、一昨日は “古語 ” の出典となった文章をご紹介し、それを書いた韓愈(かんゆ)の主張は「人間社会は弱肉強食ではない」というものであることを突きとめた。


では、韓愈の言うとおり、人間社会以外では「弱肉強食」は成り立つのか。


今さらながらではあるが、「弱肉強食」で辞書を引くと【弱者が強者のえじきとなること。強者が弱者を思うままに滅して栄えること。優勝劣敗】とある。

弱者の滅亡。こんな激しい変化が自然界の基本だとしたら、エコロジーなど意味がなくなるだろう。人に拠らず、自然に任せておくだけで絶滅する種ばかりになる。そして肉である弱者が滅亡すれば、食う側もいずれ滅びるのは必定。これを自然の摂理とするなど、笑っていいことだと思う。


そもそも、韓愈はその辞の中で語っているとおり、人の多く住まう場所でのんきに暮らしている “都会人” であることを忘れてはならない。

これは現代日本の大多数と同じである。野生動物を身近に見ることもほとんどない、わずかに庭先に現れる野鳥とか、書物や絵画、昨今では写真やTVなど、メディア(媒体)による伝聞から想像するに過ぎない人間なのである、あなたも、わたしも。


確かに野生動物は “都会人” ほど油断はしていない(とはいえ、ひとかけらも油断する時間がなければ、補食されるはずも、釣り糸に引っかかるはずも、罠に落ちるはずもないけれど)。

自分が油断してる “都会人” としては、その姿からすさまじい「食うか食われるか」を想像する。強い肉食獣が何かと周囲にいる弱い草食獣を殺す、常に気を抜けない世界を思い描いている。

メディア側も、古くから(古文書の時代から)受取り手が喜ぶ場面だけを切り取ってよこすから、ますます苛酷な情景しか頭に浮かばない。


しかし、サヴァンナの定点観察などを見ていると、ライオンのすぐ側でインパラがのんびり草を食べているなど、ごく日常的な光景である。


だいたい、ライオンなど捕食動物のほうも狩りは非常にリスキーである。食われるほうだって命がけだから、思わぬ反撃もする。蹄(ひづめ)や角はダテではないのだ。もしざっくりやられたとしても、医者も病院もないし社会保障もない。動けなければ獲物はなく、いかに強い獣でも餓死せねばならない。

だから、彼らは本当に必要な時にしか殺さない。食われるほうもそれを熟知していて、満腹感を見せてくつろいでいる相手の前ではのんびりかまえているのである。


自分の遺伝子を守るための “血統違いの子殺し” を除けば、食べない殺しをするのはほぼ知能の高い生き物であるらしい。可愛い顔して、イルカは弱者をいじめ殺す。サルの一部も争いを好む。これは単なる想像だが、複雑化した知能による《予測》が《仮想敵》を生みやすいのかもしれない。

人間はさらに始末が悪い。

わたしは食料備蓄技術と武器と医療によって人間は発達し、且つ、わきまえを失ったと思っているが、もともと飛び抜けて生存への意志が強い種(つまりはワガママ勝手)であるのに、自分の力量も後先も考えず攻撃を仕掛け、いま食べないぶんまで抱え込み、しかも食べない殺しまでする。


だからこそ人間には、韓愈のいう「倫理」「規範」が必要なのだろう。


その人間の呵責なさで《油断のならない世界》を推し量れば、実際よりも荒れ果てた世界を思い描くのは必然というものだ。一般に考えられている「弱肉強食」の世界は、容赦ない人間の本能を抱えながら、現在はのんびり油断して暮らす “ 都会人 ” の頭脳が描き出した架空の状況といえるだろう。


それでは、実際の観察によって「自然淘汰(とうた)」または「自然選択」という概念を唱えたダーウィンはどう考えていたのだろうか。



明日に続きます。
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