今日は間宮林蔵(まみやりんぞう)の命日だというので、思い出したことがあった。
間宮は江戸末期の人で、蝦夷(えぞ=現在の北海道)の測量をおこない、のちに「間宮海峡」と呼ばれる海峡を発見して樺太(からふと)が島であることを証明した。
実は江戸幕府の隠密(おんみつ)、今風に言うと「スパイ」だった。
江戸時代の日本は現在のアメリカに似ているように思う。
アメリカは独立した「州」の集まりで、各州で法律も異なる。同じように、江戸期の日本も「藩」という小国家の集まりを幕府が束ねている感じで、普段は「藩」の自治に任されていた。
そうなると、こっそり悪いことをする「藩」もある。隠密たちのお仕事はこうした「藩」に潜入してようすを探り、悪事をおこなっている場合は証拠集めをすることだった。
明治維新で勝ち組にまわったからバックレてるが、薩摩(さつま=鹿児島)なんて密貿易の常習犯。
鹿児島弁は周囲の九州弁とも異なり非常に独特なものだが、実はあれこれ隠密に探られないよう、わざと通じにくい言葉を編み出したのだという。
努力の甲斐あって、鹿児島は隠密にとって「難攻不落」の場所となる。江戸時代を通して潜入に成功した例は、確かひとつしかなかったはずだ。その(たぶん唯一の)成功者が間宮林蔵だった。
間宮は鹿児島弁を学ぶのではなく、鹿児島と熊本の県境に入り、その地方の方言を身につけた。これなら微妙な違いまでは鹿児島人にはわからない。そうした工夫を重ね、ついに密貿易を告発することに成功した…鹿児島の城のソテツの根方に証拠品を埋めてきた…そんな小説を読んだ記憶がある。
さて、どの本だったろう。
記憶がしっかりしていないのでネット検索をかけてみた。有名どころの書籍なら、キーワードをあれこれ変化させていけば絞り出すことができる。ところが、今回は上手くいかなかった。
九州が舞台で武家物でややマイナーといえば、滝口康彦氏だろうか。
そんなことを考えて、滝口氏で検索をかけ直したところ、ずらりと表紙画像も在庫もない本のタイトルだけが並んだ。
…これだから、断捨離 なんてできないんだよ。
歳を取ったから、無駄なものは捨てろとか言われる。わたしはこれがどうしても納得できない。
長く生きているからこそ、手許に残っているのは貴重なものばかりになっている。上記の本のように手放したらほぼ二度と手に入らないし、公共施設に置かれないほどマイナーな作品の場合、二度と読むこともできないだろう。
わたしは別に古書マニアなどではなく、特別な貴重本の話をしているわけでもない。普通に本を買い、愛して手許に置いて何度も読んできただけだったのに、気がつけば次々と絶版になって消えてしまっている。
これはレコードやカセットテープがCDに押されて消えた時の状況にも似ている。ポピュラーなものはすぐにCD化され、また現在主流のストリーミングサーヴィスにも洩れず、物品を手許に置いておく必要はないだろう。本にしても、電子書籍になるようなメジャーなものばかり読んでいるのならそれで済む。
だが、好き嫌いや資料としての重要性はセールスとは関係ない。断捨離とは「本当に好きなものがない」人にして可能なのでは?と思ったりする。
そういえば、すっきりシンプルなお部屋に住んでまーす♪という画像で、書籍らしい書籍が置いてあるのを拝見したことがない。
よもや、頭の中身まで “ すっきりシンプル ” なのではあるまいな?とよけいなことを想像したりもするのである。
今日はなかなかブラックマ(笑)。

間宮は江戸末期の人で、蝦夷(えぞ=現在の北海道)の測量をおこない、のちに「間宮海峡」と呼ばれる海峡を発見して樺太(からふと)が島であることを証明した。
実は江戸幕府の隠密(おんみつ)、今風に言うと「スパイ」だった。
江戸時代の日本は現在のアメリカに似ているように思う。
アメリカは独立した「州」の集まりで、各州で法律も異なる。同じように、江戸期の日本も「藩」という小国家の集まりを幕府が束ねている感じで、普段は「藩」の自治に任されていた。
そうなると、こっそり悪いことをする「藩」もある。隠密たちのお仕事はこうした「藩」に潜入してようすを探り、悪事をおこなっている場合は証拠集めをすることだった。
明治維新で勝ち組にまわったからバックレてるが、薩摩(さつま=鹿児島)なんて密貿易の常習犯。
鹿児島弁は周囲の九州弁とも異なり非常に独特なものだが、実はあれこれ隠密に探られないよう、わざと通じにくい言葉を編み出したのだという。
努力の甲斐あって、鹿児島は隠密にとって「難攻不落」の場所となる。江戸時代を通して潜入に成功した例は、確かひとつしかなかったはずだ。その(たぶん唯一の)成功者が間宮林蔵だった。
間宮は鹿児島弁を学ぶのではなく、鹿児島と熊本の県境に入り、その地方の方言を身につけた。これなら微妙な違いまでは鹿児島人にはわからない。そうした工夫を重ね、ついに密貿易を告発することに成功した…鹿児島の城のソテツの根方に証拠品を埋めてきた…そんな小説を読んだ記憶がある。
さて、どの本だったろう。
記憶がしっかりしていないのでネット検索をかけてみた。有名どころの書籍なら、キーワードをあれこれ変化させていけば絞り出すことができる。ところが、今回は上手くいかなかった。
九州が舞台で武家物でややマイナーといえば、滝口康彦氏だろうか。
そんなことを考えて、滝口氏で検索をかけ直したところ、ずらりと表紙画像も在庫もない本のタイトルだけが並んだ。
…これだから、断捨離 なんてできないんだよ。
歳を取ったから、無駄なものは捨てろとか言われる。わたしはこれがどうしても納得できない。
長く生きているからこそ、手許に残っているのは貴重なものばかりになっている。上記の本のように手放したらほぼ二度と手に入らないし、公共施設に置かれないほどマイナーな作品の場合、二度と読むこともできないだろう。
わたしは別に古書マニアなどではなく、特別な貴重本の話をしているわけでもない。普通に本を買い、愛して手許に置いて何度も読んできただけだったのに、気がつけば次々と絶版になって消えてしまっている。
これはレコードやカセットテープがCDに押されて消えた時の状況にも似ている。ポピュラーなものはすぐにCD化され、また現在主流のストリーミングサーヴィスにも洩れず、物品を手許に置いておく必要はないだろう。本にしても、電子書籍になるようなメジャーなものばかり読んでいるのならそれで済む。
だが、好き嫌いや資料としての重要性はセールスとは関係ない。断捨離とは「本当に好きなものがない」人にして可能なのでは?と思ったりする。
そういえば、すっきりシンプルなお部屋に住んでまーす♪という画像で、書籍らしい書籍が置いてあるのを拝見したことがない。
よもや、頭の中身まで “ すっきりシンプル ” なのではあるまいな?とよけいなことを想像したりもするのである。
今日はなかなかブラックマ(笑)。
