21日2-②

そもそも『ホビット』の主題はどこにあるかといって、ガンダルフが別れ際にビルボへ言う「お前は大した奴じゃ。わしはお前が気に入っておる。しかし広い世界の中では、お前もどこにでもいるちっぽけな存在じゃ」のはず。原作者トールキンがホビットとドワーフという《小さき者》を主人公にしたのも、その意識あってのことでしょう。

物語『ホビット』の主役はホビットとドワーフであること。これは原作に書かれたとおりの事実であり、上記のような深い意味もあることです。

商売ですから、人気のオーランド・ブルームを出してくるのも仕方ない。女性の登場割合が極端に低い原作に対して映画的には女性キャラが必要で、オリキャラのタウリエルが生まれるのも当然でしょう(なぜエルフにかたよるのか知らんけど)。そしてレゴラスとタウリエルとキーリの恋愛物語というオリジナル展開も、映画的見どころとしては悪くなかったです。

けれどそれは《本流》を守った上のことでね。

劇場版を観た時から、トーリンの葬儀シーンがないのが不満でした。明らかに填まるべき場所はあって、EE版ではここに入るんだろうなとは思ったけど、それが映画として健全な状態なのか?と疑問でした。

そして、EE版で初めて観たシーンは「疑問」をはるかに超えました。

互いに戦わせて消耗させてからにすればいいのに…ってオークが攻めかかるタイミングを笑ってましたが、EE版ではしっかりドワーフ×エルフ×人間の三軍で戦闘が始まっています。当然だろね(笑)。

くろがね山の秘密兵器も、からすが丘に向かう時にトーリンたちが乗る「山羊」がどこから来たのかも、カットされていたわけね。エルフがドワーフを無視してオークと戦わないかに見える、その緊迫感も、ドワーフとすでに血を流したかどうかで変わってくるとは思わないのかしら。

そしてトーリンたちがバリケードを壊して戦闘に参加したあと。劇場版ではすぐ話が逸れたあげく、トーリンたちがどこからともなく現れた(笑)山羊に乗って行ってしまうわけですが、EE版には《仲間》たちの戦いのようすが描かれていました。

観客は、第一部から彼らと一緒に旅をしてきたんだよ。制作側だって、シルエットだけで13人が見分けられるようにと造型から頑張ったんじゃなかったの? その彼らがそれぞれの関係や体格・性格などの特徴を活かし、大きな敵を相手に戦っている、そここそ観たいものだとなぜ思わないの?

さらに許せないのが、からすが丘へトーリン、ドワーリン、フィーリ、キーリの4人が向かうことになるまでの逸話のカット。

劇場版を観た限り、遠目から見たガンダルフが「トーリンは精強を連れていった」的なことを言うだけで、以前にも書きましたが、王家の血筋であり若いフィーリ、キーリをトーリンが危地へ連れて行くことに違和感がありました。「ドワーフは歳を重ねるほど強い」…の映画での裏設定とも合わないし。

EE版では、トーリンはひとり山羊に乗って先頭を切り、ドワーリン、バーリン、フィーリ、キーリが山羊の引く戦車に乗ってからすが丘に向かうのです。他にボフールが乗獣扱いされているトロルを奪い取り、戦車をフォローします。しかし、多勢のオーク、トロル、さらにはワーグの猛攻の前にやがて戦車は大破。

ここで最長老のバーリンが「ここは任せろ!」をやります。ベタであっても、泣かずにおられぬ場面です。そして他の三人は「王」を守り従うため、山羊を切り離して先に進むのです。置き去りにしてゆくドワーリンとバーリンは兄弟ですよ? こんな大切な場面がなぜ劇場で観られないのよ!

こうなると、今まで商売で仕方ないなと思っていた余計な場面に猛然と腹が立ちます。
バルドのファミリーパパっぷりとか必要だった? エルフの内輪もめとか知らないし、愛の講釈もたくさん。グンダバドくんだりまで行って何もせず帰ってくる逸話なんて何なのよ。

『ロード・オヴ・ザ・リングス』の時、世界を救うのにトム・ボンバディルは要らないって言ったよね、ジャクソン監督? じゃあ、レゴラスの生い立ち話(それも創作)がMiddle-Earthにとって何の役に立つわけ?

確かに、原作にもドワーフたちの戦いぶりは描かれていません。主人公であるビルボが頭を強打して意識を失っているうちに戦闘は終わっていたからです。けれど、もはや五軍の戦いしか描くものが残ってないところまで話を進めた「映画」で、主人公である《仲間》たちの戦いがカットされ、人間やエルフばかり出てくるなんておかしいでしょう。

長くなったので、明日に続きます。



怒りまったく治まらず。
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