本日、5月18日。
ルネサンス期イタリアのすぐれた女性統治者、イザベッラ・デステの誕生日です。

芸術文化の守護者にしてしたたかな領主であったフェラーラ公エルコレ1世の娘に生まれ、同じような小国のマントヴァ侯フランチェスコと結婚したイザベッラ。

超ざっくり説明しますと、当時のイタリアは都市国家がばらばらに存在する地でイタリアという国家はなく、時代の流れで土地に密着した有力者が各地の君主となっていきました。これを勝手に名乗った(=僭称)というので「僭主(せんしゅ)」と呼んだりします。

フェラーラはもともと教皇領つまり教会の領土で、エステ家は侯爵(のちに公爵)として教皇に領土を与えられている存在でした。それが教皇の権力の弱体化に乗じて君主化するのですが、代々の善政により、つけいるスキを与えなかった家です。

イザベッラの父エルコレ公も政治力にすぐれ、さらに文化芸術の保護者として名高く、イザベッラは高名な画家の絵を眺め、家族で楽器を奏で、当時のイタリアでもっとも完備された大学を持つ国の宮廷で、超一流の学者と会話して育ったのでした。もちろん、実家の権謀術数もしっかりと身につけて。

「ルネサンスの華」と讃えられた美貌に加え、教養豊かで美的センスにすぐれた彼女はイタリアのみならず、欧州のファッションリーダーとなります。フランス王室の女性たちもマントヴァ侯夫人の真似をしたとか。しかし、彼女の真骨頂はやはり政治手腕にあるとわたしは思います。

結婚からおよそ20年後、夫は戦争で捕虜になり、35歳のイザベッラは敵に屈服することなく、味方であるはずの同盟国につけ込まれず、小国を守り抜かねばならなくなりました。早期釈放を求める夫をはじめとした周囲に「淫売」とまで罵られながら、彼女はあらゆる手を尽くしてもっとも有利な時を待ちます。

息子を代わりの人質に取られることもなく、他国の君主が欲望や愚かさから外国の軍をイタリアの地に入れてしまうことも多かった中、けっして国境を踏ませず、イタリアの他勢力の軍をマントヴァに近づけることもなく、交渉でお金が必要でも、自分の宝石を売り払って増税することなく内政も支えきったイザベッラ。敵国からさえ賞讃されます。

その夫とも10年で死別したイザベッラは若い息子の摂政として卓越した政治力を発揮し、マントヴァと実家フェラーラを守り抜き、1527年のスペイン・ドイツ連合軍による「サッコ・ディ・ローマ(ローマ略奪)」の際には3千人もの人を滞在していた宮殿に保護したりもしています。

「夢もなく、恐れもなく」とは彼女の書斎に掲げられたモットーです。
その昔、最初にこれを知った時は味気なく感じ、その意味がわかりませんでした。けれど、年を重ねるとともに合理的精神の平らかさにあこがれるようになりました。

彼女の冷静さに領民はじめ多くの人が助けられたはず。
夢を語るのもいいですが、本当に庶民を救うのはどういう精神か、浮かれずに見つめたいと思います。

(※参考資料 塩野七生著『ルネサンスの女たち』)


エステ家の別荘は世界遺産。
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