本日、5月4日。
自然に親しみ、感謝する「みどりの日」ですね。

辛辣なことを言えば、自然に親しんだり感謝できるほどまで文明が発達したことに感謝すべきかもしれません。限界集落などで本気で自然と闘ってる人たちには、都会人の寝言だったりしそう…と思ったりします。

さて、自己犠牲から考え込んでる話の続きです。
長崎で命を投げ出した車掌さんは21歳の若さでした。そこで事故の日付をあらためて見ると、1947(昭和22)年のできごとです。2年前までは戦争をしていたわけです。

車掌さんは昭和元年前後の生まれだったわけで、当然、招集される年齢だったはずです。戦地から帰った人だったのかもしれませんし、若年で内地勤務だったかもしれませんが、自らの命を捨てて他者の命を救った人が、戦争に行けば他者の命を奪い、それを当然としていたでしょう。

こうしてまとめて「他者の命」として見ると、とても不思議な気がします。
しかし、何が不思議だと思う方もおられるでしょう。彼は戦時には敵と戦い、平時でも命を張って「日本人の命」を守った。その観点から見れば、何の矛盾もないからです。

これはどこまでを「自分」に入れるかの違いに過ぎません。同じ生物と感じるのか、同じ人類と感じるのか、同じ日本人と感じるのか、同じ家族と感じるのか。結局、共通項を探して受け入れようとする限り、人間の好意や愛情はすべて広義の自己愛ということでしょう。

生存競争と自然淘汰による進化の果て、現在一番優位に立っているのが人間であるという考えのもとで見れば、一番強烈に他者を押しのけてきたのが人間であるとも言えます。それならば「自分」としたものへの愛情同様、「他者」としたものを滅ぼしやすいようにできた脳の特性(性格とか情緒とされるもの)も濃く残ってくるのは必然です。

つまり、人は他者を救う性質も殺して喜ぶ性質も持っている。そしてふたつは実は同じ特質であって、それを美徳とするか悪徳とするかすら、見る側がどこに身を置くかによって変わる
わたしはそう考えました。

そして、日本人お得意の情緒的な見かたや意見は真の理解の基礎にならない、とあらためて思いました。

偶然やその場の流れや巧みな演出で「自分」に引き入れ、あたたかい涙を注ぐ。やさしくきれいに見えるけれどもそれは、観点がズレれば容易く人を非難し、拒絶するものになるからです。


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