本日、5月2日。
八十八夜と「緑茶の日」は去年の記事をご覧いただくとして・・・
<去年の記事はこちらへ>
先日、身を犠牲にして列車を止めようとしたアメリカの機関士の話を書きました。
Wikipediaによれば、実は日本にも似た話があるそうです。てか、日本人こそ、こういうのはよくありそうな気がします。
まずは『塩狩峠』という小説にもなった、1909(明治42)年、北海道の塩狩峠での事故。
登坂中、連結器が外れて最後尾の客車が暴走しかけたところ、その車両に乗っていた車掌さんが身を投げだして客車を止めたそうです。下敷きになった彼はもちろん殉職、しかし乗客の命は救われました。
また、長崎ではバスの事故。1947(昭和22)年、木炭を燃料にしたバスが登坂中に止まりました。木炭バスはよくエンジンが止まったそうです。ブレーキも故障していたため、運転士が車掌に車止めをかますよう指示。しかし加速のためバスは止まらず崖に迫ったため、車掌さんは自分の身体を車止めにしたのだそうです。享年21歳。乗客は全員無事でした。
ちょうど前回の機関士の記事を書いた日、伺ったブログに「自己犠牲」について書かれたものがあって、そこからいろいろ考え込みました。
よく「自己犠牲」というと親、特に母性愛を持ち出す思想がありますが、わたしは「母性愛は自分の遺伝子を守る本能で、自己愛の一部に過ぎない」という見かたに賛成です。てか、もうひとつ辛く、母性愛は「鬼子母神」そのままだと思っています。
鬼子母神は子だくさんの女神ながら他人の子を取って食う鬼神でもあり、お釈迦さまがそれを戒めるためにひとりの子を隠したところ、自分の子のことは嘆き悲しみます。そこで、誰しも同じ思いなのだとお釈迦さまは諭して、子を返し、今後は血の味がするザクロを食べるよう指導するのです。
我が子を育てるために他人の子を取って食う。母性愛は血みどろの愛です。我が子の安泰のために他人を殺す母など歴史上ゴロゴロいます。逆に言えば、それほど我が子に執着するものでなければ、とても赤児なんて育てられないだろうと思いますね。
すべてを他者に注ぎ込むように見える愛も暗黒面を隠し持つなら、なぜわたしたちは上記のような逸話に感動するのでしょう。少なくとも「善行」であるとは感じるはずです。
そこでふと思い出したのが「なぜ人を殺してはならないのか」という命題でした。
人類が群れを成し、たくさんの遺伝子ストックを持つことに生存戦略をかけたのであれば、少ない犠牲で多くを救う行為は本能的に「善いこと」であるはず。
<「なぜ人を殺してはならないのか」については、過去記事こちらへ>
<そもそもの引用元への外部直接リンクはYahoo質問箱へ>
しかし、それならばなぜ人には殺害を快楽とする感覚まで備わっているのか。
明日はそのへんを考えてみようかなと思います。
ああ、でも野鳥の声が呼んでる…

八十八夜と「緑茶の日」は去年の記事をご覧いただくとして・・・
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先日、身を犠牲にして列車を止めようとしたアメリカの機関士の話を書きました。
Wikipediaによれば、実は日本にも似た話があるそうです。てか、日本人こそ、こういうのはよくありそうな気がします。
まずは『塩狩峠』という小説にもなった、1909(明治42)年、北海道の塩狩峠での事故。
登坂中、連結器が外れて最後尾の客車が暴走しかけたところ、その車両に乗っていた車掌さんが身を投げだして客車を止めたそうです。下敷きになった彼はもちろん殉職、しかし乗客の命は救われました。
また、長崎ではバスの事故。1947(昭和22)年、木炭を燃料にしたバスが登坂中に止まりました。木炭バスはよくエンジンが止まったそうです。ブレーキも故障していたため、運転士が車掌に車止めをかますよう指示。しかし加速のためバスは止まらず崖に迫ったため、車掌さんは自分の身体を車止めにしたのだそうです。享年21歳。乗客は全員無事でした。
ちょうど前回の機関士の記事を書いた日、伺ったブログに「自己犠牲」について書かれたものがあって、そこからいろいろ考え込みました。
よく「自己犠牲」というと親、特に母性愛を持ち出す思想がありますが、わたしは「母性愛は自分の遺伝子を守る本能で、自己愛の一部に過ぎない」という見かたに賛成です。てか、もうひとつ辛く、母性愛は「鬼子母神」そのままだと思っています。
鬼子母神は子だくさんの女神ながら他人の子を取って食う鬼神でもあり、お釈迦さまがそれを戒めるためにひとりの子を隠したところ、自分の子のことは嘆き悲しみます。そこで、誰しも同じ思いなのだとお釈迦さまは諭して、子を返し、今後は血の味がするザクロを食べるよう指導するのです。
我が子を育てるために他人の子を取って食う。母性愛は血みどろの愛です。我が子の安泰のために他人を殺す母など歴史上ゴロゴロいます。逆に言えば、それほど我が子に執着するものでなければ、とても赤児なんて育てられないだろうと思いますね。
すべてを他者に注ぎ込むように見える愛も暗黒面を隠し持つなら、なぜわたしたちは上記のような逸話に感動するのでしょう。少なくとも「善行」であるとは感じるはずです。
そこでふと思い出したのが「なぜ人を殺してはならないのか」という命題でした。
人類が群れを成し、たくさんの遺伝子ストックを持つことに生存戦略をかけたのであれば、少ない犠牲で多くを救う行為は本能的に「善いこと」であるはず。
<「なぜ人を殺してはならないのか」については、過去記事こちらへ>
<そもそもの引用元への外部直接リンクはYahoo質問箱へ>
しかし、それならばなぜ人には殺害を快楽とする感覚まで備わっているのか。
明日はそのへんを考えてみようかなと思います。
ああ、でも野鳥の声が呼んでる…
