本日、1月27日。
少し前の新聞で、興味深い一文を見つけました。
ドナルド・キーン氏はアメリカ出身の日本文学者。三島由紀夫を初めとして、川端康成、安部公房など錚々(そうそう)たる作家との交流で知られています。東日本大震災を契機に日本国籍を取得されて現在は日本にお住まいの、侠気(おとこぎ)のある方でもあります。
そのキーン氏の回想録に【川端康成のノーベル賞受賞はエドワード・サイデンステッカーの英訳と無縁ではない】とありました。
一昨年、川端康成ノーベル賞受賞の日に、三島氏がノーベル賞から退けられた理不尽な事情とともに「ノーベル賞は数字などでもはっきりする分野」だけにとどめるべきじゃない? と書いたことがあります。
<過去記事はこちら>
ノーベル賞を決める段階になって、あわてて各国の文学に首を突っ込んでいるのではないかと思わせる、三島氏の悲劇についてはまた別問題として、根本的な問題は「翻訳文学には厳とした限界がある」ということ。上記の回想録を読んで、わたしはますますそう思いました。
どんなにすばらしい作品でも、翻訳家に恵まれなければ言語が異なる人々には伝わりません。言語学的に移し替えていくことはもちろん可能でしょう。しかし、実用本ならばともかく、文芸作品に関してはイメージの陰翳(いんえい)が欠かせません。
極論でいえば、わたしは原作付き映画は監督や制作による二次創作であると思っています。そしてそれと同じ意味合いで、翻訳文学とは翻訳家による二次創作だと思います。
翻訳家の文学的素養の上に成り立つ翻訳文学は、かなりの割合で翻訳家自身の「文学」が投影されます。言葉の選択は、文学者の譲れないイメージ(本人的には最上のイメージ)によるものだからです。
これは映画監督が原作を表現するのにベストな形状や情景だと信じて、その人なりの映像を仕立てていくのと作業的には同質だと思います。
それは彼・彼女が連想したものの体現でしかなく、原作と同じものを提供したことにはなりません。厳密な意味では、そして実は文学の本質の部分では、翻訳文学は原作とは別ものだと思います。 つづく。
注:二次創作が悪いとは
まったく思ってませんよ。

少し前の新聞で、興味深い一文を見つけました。
ドナルド・キーン氏はアメリカ出身の日本文学者。三島由紀夫を初めとして、川端康成、安部公房など錚々(そうそう)たる作家との交流で知られています。東日本大震災を契機に日本国籍を取得されて現在は日本にお住まいの、侠気(おとこぎ)のある方でもあります。
そのキーン氏の回想録に【川端康成のノーベル賞受賞はエドワード・サイデンステッカーの英訳と無縁ではない】とありました。
一昨年、川端康成ノーベル賞受賞の日に、三島氏がノーベル賞から退けられた理不尽な事情とともに「ノーベル賞は数字などでもはっきりする分野」だけにとどめるべきじゃない? と書いたことがあります。
<過去記事はこちら>
ノーベル賞を決める段階になって、あわてて各国の文学に首を突っ込んでいるのではないかと思わせる、三島氏の悲劇についてはまた別問題として、根本的な問題は「翻訳文学には厳とした限界がある」ということ。上記の回想録を読んで、わたしはますますそう思いました。
どんなにすばらしい作品でも、翻訳家に恵まれなければ言語が異なる人々には伝わりません。言語学的に移し替えていくことはもちろん可能でしょう。しかし、実用本ならばともかく、文芸作品に関してはイメージの陰翳(いんえい)が欠かせません。
極論でいえば、わたしは原作付き映画は監督や制作による二次創作であると思っています。そしてそれと同じ意味合いで、翻訳文学とは翻訳家による二次創作だと思います。
翻訳家の文学的素養の上に成り立つ翻訳文学は、かなりの割合で翻訳家自身の「文学」が投影されます。言葉の選択は、文学者の譲れないイメージ(本人的には最上のイメージ)によるものだからです。
これは映画監督が原作を表現するのにベストな形状や情景だと信じて、その人なりの映像を仕立てていくのと作業的には同質だと思います。
それは彼・彼女が連想したものの体現でしかなく、原作と同じものを提供したことにはなりません。厳密な意味では、そして実は文学の本質の部分では、翻訳文学は原作とは別ものだと思います。 つづく。
注:二次創作が悪いとは
まったく思ってませんよ。
