本日、11月4日。
映画と日本語で思い出したのですが、やはり目を疑ったのが、何年か前に見かけた『敬愛なるベートーベン』なる映画タイトルです。

これは根本的な勘違いだろうと思います。おそらく「親愛なる」とか「はるかなる」といった言葉を「親愛+なる」「はるか+なる」と思っているので、それならば「名詞(らしきもの)+助動詞ナリの活用形」で「敬愛+なる」も成り立つだろうと考えたのでしょう。
※「はるか」は名詞ではありません。

確かに助動詞ナリは体言(名詞など)につきますが、それらとは用法が違い、このタイトルで表現したいのは「親愛なる」とか「はるかなる」と同じように、その状態を表す「形容動詞」としてのものかと思います。

実は「親愛なる」「はるかなる」はひとつの言葉です。形容動詞は【終止形語尾が、口語では「だ」、文語では「なり」「たり」であるもの】なのです。試しに、しっかりした日本語ワープロで変換してみれば「親愛なる」は一語として出ますが、「敬愛なる」はふたつのパーツになってしまうはずです。

つまり「敬愛」は形容動詞にならないのです。

以上、文法的指摘です。
とはいえ、ホントはわたしも文法は苦手なんですよ。だからこそ、こんな理屈や専門用語でうんぬんでなく、これを日本語の「感覚」として変だと思わないことにむしろ不安を感じます。

この先は厳密な文法の話ではなく、感覚的な文章になりますが。

親愛というのは形容的な言葉です。形容とは、状態や姿形や性質などを表す言葉。きれいとか、親しいとか、遠いとか、細かく文法的にいうと形容動詞だったり形容詞だったりしますが、ようすを表していることには変わりありませんよね。

しかし、敬愛は動作っぽい言葉です。簡単にいうと「~する」と言えますよね。「尊敬する」とか「恐怖する」とかいうことはできても、「親愛する」とは言いません。

同じく「愛」がついてかなり似てても、敬愛は尊敬するという、自分の心的動作が前提の言葉ですが、親愛は親しいという、相手とのあいだの状態が前提の言葉。極端にいえば「敬愛する人」は自分の気持ちだけで言えますが、相手も同じ気持ちってわけじゃないのに「親愛なる人」と呼びかけたら、ちょっとアブナイかもです(笑)。

そんなふうに言葉の意味を充分に感じ取れば、品詞がどーのといった難しいことを知っていなくても、動作っぽい敬愛はスル、ようすっぽい親愛はナル。また「乱暴」のような、動作的でも形容的でもある言葉は、スルもナルも使えるとか、あまり外さずに考えられると思うのです。そうして「敬愛なる」には違和感を感じるんじゃないかなと思います。
※乱暴は、文法的には形容動詞と動作性名詞の両方の用法があるものです。

さて、受け手はこんなもんとしても、送り手はもっと真面目にやってもらいたいですね。少し辞書を引くとか、ごく簡単にワープロ変換の際に字義を確認するだけでも、敬愛という名詞には「する」しかつかないことくらい出てきます。

ひとりでやってるならミスもあるでしょう。誤用を信じ込んでいて、確認なんて思いもよらないこともあるでしょう。しかし、会社がおこなってることがこうまで杜撰(ずさん)だと、言葉の問題だけでなく、いろいろ心配になってしまいます。


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