8月3日。

昨日の続き、ローマVSカルタゴです。




歩兵9万・騎兵1万2千・37頭のゾウまで連れて本拠地を出た、29歳の猛将ハンニバル。


途中で防衛のため兵を残したり、戦意のない兵士を帰還させたりして、ピレネーを越えてガリア(現在のフランス)に入った時には歩兵5万・騎兵9千・ゾウ37頭。そしてローヌ川とアルプスを越えられたのは歩兵2万・騎兵6千(以前観た海外歴史番組ではゾウの数も出ていたはずですが忘失、手許資料には頭数がありません)。




アルプスのふもとは未だローマの支配地になっておらず、ローマに押される先住のガリア人の土地でした。ここでハンニバルは彼らを懐柔し、傭兵として雇い入れます。初めから補充の目星はつけてあったのでしょう。ガリア人部族もすべてが彼についたわけではありませんが、ローマに勝利するようすを見て、ハンニバルの下につく者が増えます。




ローマはその思いがけない攻撃で受けたダメージを回復するため、決戦を避けて時間を稼ぎました。ハンニバルはイタリア半島各地を転戦し、食料はじめ軍の必需品は略奪でまかなうのが普通ですので、被害は甚大でした。決戦を望む声が高まり、ローマもついに動きます。




当時の「ローマ連合」全体の動員力は75万人。予備役を含めればローマ市民だけで28万人に及びます。しかしこれは総動員数であって、実際にハンニバルと対する数は5~6万ほど。ハンニバルの率いる本隊は総勢2万6千と半数ほどになりますが、苛酷な行軍に耐えて磨き抜かれた精鋭でした。




紀元前216年8月2日、オファント川沿いのカンネ村=ローマの食糧基地を略奪したハンニバルは、その地に留まりローマ軍を待ちました。




ローマは重装歩兵5万5千、軽装歩兵8千ほど、騎兵6千の軍勢で、1万人を野営地の警備に残して7万人が戦場に臨みます。対してハンニバルは重装歩兵3万2千、軽装歩兵8千、騎兵1万の5万人。(この兵種・兵数はWikipediaによります)




ローマは主力の重装歩兵による中央突破を狙います。機動力に勝るハンニバルは、まずガリア傭兵による中央がふくらんだ弓形の陣を布いて、突破に時間と労力をかけさせ、その後ろに精鋭のカルタゴ歩兵を置きました。その間に左右の騎兵戦を制し、いったん引いたように見えたガリア傭兵ら精鋭以外の歩兵たちがその間隙を埋め、さらに勝利した騎兵が取り囲む。


前人未到の5万人による7万人の包囲は完成しました。




ローマ軍はほぼ全滅。参戦していた元老院議員80人もほぼ全員が戦死を遂げました。捕虜になったのは、野営地に残っていた1万人だけ。逃げのびた敗残兵は1万に満たなかったといわれ、ローマの犠牲は7万に近く、ハンニバル側はわずか5千5百とされています。




ローマにとって、後にも先にもない大敗北でした。




以前の記事でも書いたとおり、カルタゴ本国政府は戦争を嫌う傾向が強く、ハンニバルは必ずしも政府に厚遇されてはいませんでした。極端な言いかたをすれば独力で、29歳にしてこの大勝利を成し遂げたハンニバルの強烈な意思力には、目にまぶしいほどのあこがれを感じます。


さすがのカリスマ(笑)。




しかし、この大敗戦ののちのローマも心惹かれるものがあります。

敗残兵をまとめて帰着した総司令官は、元老院議員はじめ全市民が城門まで出て迎え、労をねぎらいました。主戦論者だった彼への非難はいっさいなく、反対派も口をつぐみ、これまでの敗戦を指揮した司令官がすべて平民出身であることを指摘する貴族もいなければ、為政者を責めて騒ぐような庶民もいませんでした。




さすがに長きにわたり繁栄する国はその心魂が違う、と粛然とした気持ちになります。




(※参考資料 塩野七生『ローマ人の物語Ⅱ ハンニバル戦記』)








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