できちゃった婚(授かり婚)はあり?なし? ブログネタ:できちゃった婚(授かり婚)はあり?なし?

本日、6月25日。
授かり婚がいけないなんて、日本人は本当に忘れん坊さんですね。

今日は日本の男女関係の歴史をたどって、我らの国がいかに「おおらかな国」であったかを書いてみたいと思います。

日本の結婚の最初の形態は「妻問婚(つまどいこん)」「通い婚」と呼ばれるものだったとされます。先日、マレビト(客人)の件でも書きましたが、これは完全に夫婦別居制で、男性が女性のところに通ってきて夜を過ごし、朝には帰っていくというものです。
<マレビトの記事はこちらへどうぞ>

ちなみに、現在では「夜這い」と書くと思われているヨバイですが、これはもともと「呼ばい」で、このような結婚形態の時に妻のもとを訪れた夫が、歌を詠みかけたりして「来たよ。家へ入れておくれ」と呼びかけることを指しました。考えてみたら客人ゆえに家へズカズカ入ることも許されなかったわけで、強引に入り込もうとさえする「夜這い」とは真逆に近いものですね。

妻と夫と書きましたが、現在の感覚からすると恋人と夫婦の境界はあいまいです。男性が他に通いどころを持つ場合もあるし、女性のもとにも複数の男性が通ったりしました。

ひょっとしたら「呼ばい」の習慣も、いきなり他の人とかち合わないようにというたしなみだったのかもしれません。ただ、お互いに嫉妬はありますから、あまりおおっぴらにあちこち手を出すと本命とダメになるという、ごく当たり前の事態にはなります。

この後、平安期にはあいだを取ったような感じで、妻問婚の形態は残しつつも、そのうちの誰かと一緒に暮らすようになります。一応、共に暮らす人が正妻ということになりますが、他が「愛人」「妾」というわけではありません。一定の手続きを踏んで通っている相手は全員が「妻」で、公平に通うよう気遣うのが男性の心得でもありました。

ところが、東国と呼ばれた関東~東北では少し事情が違っていたようです。
たとえば平安末期、鎌倉幕府を興した源頼朝北条政子の結婚生活が臣下まで巻き込む大ゲンカになりがちだったのは、東国と都の習慣の違いがあって、妻問婚的な頼朝に対し政子は一夫一婦的だったためだという説があります。

これは私見ですが、東国には北方からの欧州文化の影響があったのではないかと思うんですね。それこそ「□□(父の名前)の息子」と名乗るような文化、またキリスト教的な父を絶対とする思想、こうした父系社会=嫁取り&女性の貞操を問う文化が東国には入っていたのではないか。そして後世の武家の核を成してゆく東国武者のあいだにこうした傾向があったことで、武家と庶民の乖離(かいり)が起きたような気がします。

武家が台頭すると、嫁取り婚が普通になります。上記の私説のほかに、武家は基本的に「家も軍隊」ですから、戦士である男性にしか価値がなくなったこと、指揮官は絶対なのでトップの男性が別格となり、相対的に妻の立場が下がったこともあると思います。あと、いつやられるかわからないので、通い婚なんて危険なことはできなくなった側面もあるかもしれません。

女性はエライ男性のところに集められます。たくさん跡継ぎを作ることが武士のもうひとつの務めでしたから、女性の気持ちは論外です。ただし、これは明日死ぬかもしれない戦士であって初めて言えることで、平和な世に押し通す理屈じゃありませんのでお間違いなく。

話を戻して。
では庶民はどうだったかというと、権力者にならって嫁取りが普通にはなったものの、実際にはかなりアヤしいものです。長屋なんぞでは「隣の亭主に似たこども」なんてザラ。誰の子か本当はわからないので、隣近所でわけへだてなく育てたんだとか。裕福なお嬢さんは男性を買って遊んだりするし、もう(笑)。

田舎に行くともっと過激で、親と同居では訪ねにくいからと、一定の年頃になると「娘宿(むすめやど)」に集まって暮らし、村の青年たちと自由に「おつきあい」したりしたわけです。

子を宿したら、条件のいい男をみつくろって「あんたの子だ」と結婚した、なんて話もあります(笑)。お祭りの夜は「既婚者でも、誰とでもOK」という風習も、各地にありました。こういうならわしは、地域によっては戦前まで続いてたそうです。

日本では、性的なことは祝い事でした。娼婦との接触さえもおおっぴらで、明治期に来日した外国人が「こんなプライバシーのないところでできるか」と逃げ出したほど(笑)。子孫繁栄はとにかくめでたく、結実につながる行為もめでたく、男と女がいれば寝るのが当たり前だったのです。

こう考えてくると、授かり婚は日本伝統の結婚のしかた。先祖たちにならって、笑って「めでたい」と祝うのがいいかと思います。

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