本日、3月29日。
天和(てんな)3年のこの日(グレゴリオ暦1683年4月25日)、八百屋お七が放火したため「八百屋お七の日」なんですと。
お七の物語の概要は、Wikipediaから引用しますが【比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によるとお七の家は天和2年12月28日の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。
寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。
火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりに処された】というもの。
>お七の起こした小火でなく、きっかけになった「天和の大火」が「お七火事」と呼ばれ、この大火をお七が起こしたと考える人が多いです。小説にしろ、演劇にしろ、お七の恋情と燃えさかる江戸の町を対比として描くほうが映えるためでしょう。
実際わたしも、いくつか読んだ本ではそうなっていたので、先々月「明暦の大火」について書き、江戸の火事記録を調べ直すまでは「お七=大火の放火犯」を信じ込んでいました。
とはいえ、小火で済んだのは偶然に過ぎません。
新暦3月は大風の日が多く、実際、江戸の大火はこの頃がもっとも多いのです。また大惨事になっていたかもしれません。焼け出された人たちがやっと再興しようというところ、自分の勝手でまた火を放つのが、そんなに賞揚されることでしょうか。
大火の原因がお七という設定の、杉本苑子先生の小説で、地道に荒物屋(今でいう雑貨店)を経営して舅と娘を養ってきた寡婦が、蓄えをはたいて多めに仕入れた矢先に火事に見舞われ、すべてを失い、娘を「風呂屋」に売る話がもちあがる、という話がありました。
この場合「淫乱娘(お七のこと)の血狂いで、なんでうちの娘の人生が台なしにされなくちゃならないんだ!」という、不幸な母親の怒りは至極当然のことでしょう。
この時代の「風呂屋」というのは、ただの入浴施設のことではありません。
老若男女が入浴に行くのは「銭湯」または「湯屋」などと呼ばれる別物。
「風呂屋」とは「湯女(ゆな)」「風呂女」「風呂屋者」などと呼ばれた女性を置き、湯上がりの男性客へ種々サービスをさせ、売春もさせた場所です。そういえば、司馬遼太郎先生の幕末を描いた小説の中に、洗い場で湯女とあぶないプレイをする描写もありました。
江戸時代、公式な風俗業は江戸なら吉原だけ。深川はじめ「岡場所」と呼ばれた品川・新宿・板橋などはすべて無認可の売春がおこなわれた場所です。
どのみち売春行為自体がよいわけないのですが、公認や有名どころに比べて違法業者がブラック率高いのはいつの世も同じ。まして宿屋にこっそり置いた「飯盛女」や「風呂女」といった下級娼婦は、さらに苛酷な就業を強いられたようです。
必死で守り育てた娘を、十三、四歳くらいで生き地獄に送らねばならない。そんな目に遭った人が実際、たくさんいたはずです。そうまでして再起した人々をさらなる地獄へ落とそうとした行為が、記念日を作って偲んでやるようなことなのでしょうか。
ただ感情的に飛びつき、好みの一面だけを愛でて、都合の悪いことはシャットアウト。わたしの大嫌いな「忠臣蔵」祭り上げなどもそうですが、どうしてこういうことが起きるのでしょう。
野暮を言っているのはわかっています。野暮でなきゃいいってもんでもないと思っています。
芸術の分野でひとつの象徴として、ある事件や人物をロマンティックに扱うのはアリだと思いますが、少なくとも、歴史的事実やその実相のほうがきちんと知られるべきですし、犯罪行為がたたえられるのはおかしい、と普通に受け止める「生活感覚」も大切なものだと思います。
追記:
杉本作品の中では「血狂い」として使われていたのでそのまま書きましたが、これはもともとは「畜類」で、色ごとに関して「ちくしょーめ」と言いたい時に使用したもの。自分を迷わす美女に「この畜類め…」とか、仲むつまじいカップルに「畜類め、せいぜいエッチしやがれ(笑)」みたいに使いました。
例によってどこかで意味がわからなくなって、やがて音から「血狂い」と思われ「異性に血道をあげる人」「色狂い」の意に使われたようです。

天和(てんな)3年のこの日(グレゴリオ暦1683年4月25日)、八百屋お七が放火したため「八百屋お七の日」なんですと。
お七の物語の概要は、Wikipediaから引用しますが【比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によるとお七の家は天和2年12月28日の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。
寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。
火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりに処された】というもの。
>お七の起こした小火でなく、きっかけになった「天和の大火」が「お七火事」と呼ばれ、この大火をお七が起こしたと考える人が多いです。小説にしろ、演劇にしろ、お七の恋情と燃えさかる江戸の町を対比として描くほうが映えるためでしょう。
実際わたしも、いくつか読んだ本ではそうなっていたので、先々月「明暦の大火」について書き、江戸の火事記録を調べ直すまでは「お七=大火の放火犯」を信じ込んでいました。
とはいえ、小火で済んだのは偶然に過ぎません。
新暦3月は大風の日が多く、実際、江戸の大火はこの頃がもっとも多いのです。また大惨事になっていたかもしれません。焼け出された人たちがやっと再興しようというところ、自分の勝手でまた火を放つのが、そんなに賞揚されることでしょうか。
大火の原因がお七という設定の、杉本苑子先生の小説で、地道に荒物屋(今でいう雑貨店)を経営して舅と娘を養ってきた寡婦が、蓄えをはたいて多めに仕入れた矢先に火事に見舞われ、すべてを失い、娘を「風呂屋」に売る話がもちあがる、という話がありました。
この場合「淫乱娘(お七のこと)の血狂いで、なんでうちの娘の人生が台なしにされなくちゃならないんだ!」という、不幸な母親の怒りは至極当然のことでしょう。
この時代の「風呂屋」というのは、ただの入浴施設のことではありません。
老若男女が入浴に行くのは「銭湯」または「湯屋」などと呼ばれる別物。
「風呂屋」とは「湯女(ゆな)」「風呂女」「風呂屋者」などと呼ばれた女性を置き、湯上がりの男性客へ種々サービスをさせ、売春もさせた場所です。そういえば、司馬遼太郎先生の幕末を描いた小説の中に、洗い場で湯女とあぶないプレイをする描写もありました。
江戸時代、公式な風俗業は江戸なら吉原だけ。深川はじめ「岡場所」と呼ばれた品川・新宿・板橋などはすべて無認可の売春がおこなわれた場所です。
どのみち売春行為自体がよいわけないのですが、公認や有名どころに比べて違法業者がブラック率高いのはいつの世も同じ。まして宿屋にこっそり置いた「飯盛女」や「風呂女」といった下級娼婦は、さらに苛酷な就業を強いられたようです。
必死で守り育てた娘を、十三、四歳くらいで生き地獄に送らねばならない。そんな目に遭った人が実際、たくさんいたはずです。そうまでして再起した人々をさらなる地獄へ落とそうとした行為が、記念日を作って偲んでやるようなことなのでしょうか。
ただ感情的に飛びつき、好みの一面だけを愛でて、都合の悪いことはシャットアウト。わたしの大嫌いな「忠臣蔵」祭り上げなどもそうですが、どうしてこういうことが起きるのでしょう。
野暮を言っているのはわかっています。野暮でなきゃいいってもんでもないと思っています。
芸術の分野でひとつの象徴として、ある事件や人物をロマンティックに扱うのはアリだと思いますが、少なくとも、歴史的事実やその実相のほうがきちんと知られるべきですし、犯罪行為がたたえられるのはおかしい、と普通に受け止める「生活感覚」も大切なものだと思います。
追記:
杉本作品の中では「血狂い」として使われていたのでそのまま書きましたが、これはもともとは「畜類」で、色ごとに関して「ちくしょーめ」と言いたい時に使用したもの。自分を迷わす美女に「この畜類め…」とか、仲むつまじいカップルに「畜類め、せいぜいエッチしやがれ(笑)」みたいに使いました。
例によってどこかで意味がわからなくなって、やがて音から「血狂い」と思われ「異性に血道をあげる人」「色狂い」の意に使われたようです。
