本日、3月25日。

平安時代、安和(あんな)2年のこの日(グレゴリオ暦969年4月19日)、謀反の疑いをかけられた左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)の、太宰府への左遷が決定されました。


後世「安和の変」と呼ばれる政治事件です。




源高明は醍醐(だいご)天皇の皇子で、臣下に降った人です。

源氏=ミナモトという名前の人というのは『源氏物語』の光源氏のように、もともと天皇のこどもたち。天皇家には名字に当たるものがありませんので、臣下に降る時にミナモトの名をもらうしきたりだったのです。




以前に何度か、奈良時代に天武天皇の男系が途絶えた
あたりのことを書きましたが、王・皇帝・天皇の第一の義務は世継ぎを残すこと。不幸な前例のためか、平安期にはそれが重く見られた結果、今度は少々多すぎる「跡継ぎスペア」が問題になりました。




全員を公費ではまかなえないし、皇室の一員のまま悪行などされたら朝廷批判につながりかねません。雅やかな平安の世も、ひと皮剥けば不安だらけの世。根本的な解決を図る者など誰もなく、それに対する不満もくすぶり続けていました。


そんな事情で、よぶんな皇子は臣下の身分に降ろして、皇室を出すようになったのです。




高明のような、臣下に降った当人を「一世源氏」と呼びますが、もちろんやんごとなき御方ですから、臣下=官僚としての出世は早いです。高明も左大臣=通常では一番エラい役職に登りつめます。位階でいうと太政大臣が上にいますが、これは名誉職みたいなもので常設もされませんので、実質的には「左大臣が最高位」と思ってOKです。




こういう出世潮流が別の、高位のプリンスたちが、通常の臣下の中の「権門」と生涯仲よしでいられれば、大きな騒動も起きずに済むのでしょうが…いや、どうかな(笑)。


人間、特に狭いところでの競争では、憎しみ合いやすいですからねぇ。




高明の場合、当時の「権門」藤原九条流トップの藤原師輔(もろすけ)の三女と結婚して、次代の天皇候補の皇子に娘を嫁がせたまではよかったものの、その後、師輔が亡くなったため後ろ盾を失ってしまいます。




権力者が亡くなると、父の椅子を求めて兄弟が骨肉の争いを始めます。以前にも書いたとおり、男子は実家に残りません
から、利害は別々、争いは熾烈。まして師輔の子・兼通と兼家の兄弟は、激しく対立したことで史上有名なほどのふたりでした。




高明も、義理の父がトップのうちは「九条の身内」だったのでしょうが、後継者候補の兄弟とは縁がなく、未来の天皇の義理の父として権力を奪いかねない「敵」でしかありません。


この場合、縁が切れている高明は「藤原氏から権力を奪う者」として、兄弟共通の敵とされたと思われます。




時の天皇は冷泉天皇。病弱かつ精神的な疾患があったといわれている天皇です。このため急ぎ後継者を定めておく必要があり、高明の娘が嫁いだ為平(ためひら)親王と、同母弟の守平(もりひら)親王の名が挙がります。

母は同じなのだから、普通は年長の為平が選ばれるところですが、守平が東宮(とうぐう=跡継ぎ)となりました。もちろん、藤原氏の暗躍の結果でしょう。




藤原氏の陰謀はそれにとどまりませんでした。


3月25日、源満仲という下級役人がふたりの人間を謀反人として密告。満仲の弟は、藤原千晴とその子を謀反の一味として捕らえます。そしてほどなく、この謀反の主犯は高明だという告発がなされます。




出家するので都に置いて欲しいという高明の懇願むなしく、翌日26日には検非違使(けびいし=警察)に邸が包囲されます。出家するということは世を捨てるわけで、もちろん政治を含めた公式の場からの引退を意味します。天皇の子に生まれた高貴の人には、現代の秘境探検にも匹敵するような九州への移動は、とても恐ろしいことだったのでしょう。


しかし、許されることはなく、高明は捕らわれて九州へ追い立てられました。




この実質的「流罪」は1年ほどで済み、逆に「高明の経歴に傷がつけばOK」感が濃厚にただよいます。高明は復帰することなく生涯を終えました。高明自身も、なまぐさい政界に嫌気がさしたのかもしれず、ひょっとしたら藤原兄弟は、こうした「一世源氏」の淡泊さ・ひ弱さまで意地悪く見越していたのかもしれません。




さて、思ったより長くなってしまったので、久々の前後編にしようと思います。歴史が好きな方、おヒマな方は、また明日、どうぞいらしてみてくださいね。




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