本日、3月20日。
1852年、アメリカでストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』が出版されました。南北戦争直前の出版です。
南北戦争(1861~1865年)とは、工業中心の北部の各州と農業中心の南部各州の利害が対立し、南部がアメリカ連邦を脱退したことから、離脱を認めない北部との間で戦争となったものです。
南北対立の理由のひとつに「奴隷制度の存続の是非」があり、黒人奴隷の悲惨な生涯を描いた『アンクル・トム』は戦争へのひとつのきっかけを作った、ともいわれます。
奴隷制度という悪しき慣習を残そうとしたことと、連邦大統領が有名なリンカーンだったこともあって、南部の農場主たちだけが悪者にされた感がありますが、結局は北部の白人も、ほとんどは工場で働く安価な労働力が必要だっただけの話のようです。
映画の影響でラブロマンスだけが強調されてしまった『風と共に去りぬ(Gone with the wind)』ですが、この表題で「gone」と表現されたのはひとつの社会・文化、戦争で壊滅した南部そのものでした。
ですから、この作品のミソは、南部貴族社会を体現するスカーレット(華)&メラニー(実=良き心)、その双方をひたすらなつかしむアシュレイの哀しみであろう、とわたしは思うのですが…、おっと、脱線。
そういうわけで、原作小説は貴重な「南部側から見た歴史レポート」でもあると思います。
その終戦後の描写に、あこぎな北部からの流れ者たちによって、教育の機会もなく何も知らない解放奴隷たちは容易くだまされ、不利な労働条件で契約させられてゆく。むしろ家族的な保護を失って悲惨なことになる者も多かった。といったような逸話があります。
もちろん、これは南部側のバイアスがかかった見方かもしれません。
しかし、どちらかといえば血も涙もないスカーレット(笑)でさえ、乳母役を務める奴隷に親しみ、困った性癖のある少女奴隷をそれなりに受け入れ、黒人老僕に亡父の時計を与えるなどの行動を思うと、このあたりは日常的な描写であるだけに、南部の「主人」にも、普通は情があったものと思われます。
子ども向けのものしか読んでいませんが、『アンクル・トム』も途中までは人間的な「主人」に恵まれ、それなりの暮らしをしていたと記憶しています。
そして南北戦争終結から、公民権運動によって黒人の権利が拡大するまで百年かかっていることを思えば、北部の良心とやらも語るに落ちたというものでしょう。
公民権運動後、アンクル・トムは「白人に従順なおべっか使い」「白人に媚びる卑屈な者」という意味の蔑称になりました。それだけ黒人の意識が高まったということですから、いいことなのでしょう。
けれど、そこにこもった憎悪と悪意にわたしは抵抗感を覚えます。
そういえば、元ボクサーのモハメド・アリは「差別と戦った英雄」みたいな神話に包まれています。しかし、彼は白人と黒人は永遠に交わるべきでないとして、むしろ人種差別組織「KKK(クー・クラックス・クラン)」と結びつき、交際していたといいます。
「KKK」とは何度か結成された別々の組織を指していて、最初は南北戦争終結後、南部の元軍人らによる組織で、自警団的な働きをしたり黒人に対する示威行動をする程度だったものが、やがてエスカレートしてテロ組織になり果てたもの。
これは、良心的な層が離れていったことと、彼らの望む「白人と黒人は分離されるべき」という法律が整っていったことで消えていきます。
2つめが普通「KKK」といわれて想像するもので、1915年、霊夢を見たとかいう人間により創立されたもの。これも人数が集まるにつれて過激化していきます。
白ずくめの変な衣装や燃える十字架などのこけおどしは、いかにも貧困層のファンタジーといった風情ですが、有色人種・ユダヤ人を残忍な方法で虐殺する、初代よりはるかにストレートで危険な組織でした。
この組織は指導層の性犯罪などで瓦解したとされます。しかし、残存組織もしくはこれをモデルとした組織は現在まで常に存在し、黒人の権利が拡大したり景気が悪くなると再燃する傾向にあります。
同胞を焼き殺すような組織との交際が「差別と戦う」ことになるのか。互いの憎悪を媒体として結びつく両者は、本当に怖いと感じます。
そして、その荒れ果てた視点から見たとき、いったいどのあたりから「アンクル・トム」とするつもりなのか。簡単に人にレッテルを貼ってしまう言葉の恐ろしさも感じます。
人類は身のまわりのすべてを分類する比類ない能力ゆえに、敵味方・有用不用などの見分けが早く、ここまで発展したという説があります。
長所と短所は表裏一体、すぐに自分と同じか、違うものかと判定をはじめ、ゆるく共存することが苦手なのも人類。わたしはそう思います。
自分自身に引きこもることが好きなわたしなども、では、自分と違うものとどう接していくのか。こうした歴史を学んで、自分なりの「良き心」を築いていきたいものですが。
1852年、アメリカでストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』が出版されました。南北戦争直前の出版です。
南北戦争(1861~1865年)とは、工業中心の北部の各州と農業中心の南部各州の利害が対立し、南部がアメリカ連邦を脱退したことから、離脱を認めない北部との間で戦争となったものです。
南北対立の理由のひとつに「奴隷制度の存続の是非」があり、黒人奴隷の悲惨な生涯を描いた『アンクル・トム』は戦争へのひとつのきっかけを作った、ともいわれます。
奴隷制度という悪しき慣習を残そうとしたことと、連邦大統領が有名なリンカーンだったこともあって、南部の農場主たちだけが悪者にされた感がありますが、結局は北部の白人も、ほとんどは工場で働く安価な労働力が必要だっただけの話のようです。
映画の影響でラブロマンスだけが強調されてしまった『風と共に去りぬ(Gone with the wind)』ですが、この表題で「gone」と表現されたのはひとつの社会・文化、戦争で壊滅した南部そのものでした。
ですから、この作品のミソは、南部貴族社会を体現するスカーレット(華)&メラニー(実=良き心)、その双方をひたすらなつかしむアシュレイの哀しみであろう、とわたしは思うのですが…、おっと、脱線。
そういうわけで、原作小説は貴重な「南部側から見た歴史レポート」でもあると思います。
その終戦後の描写に、あこぎな北部からの流れ者たちによって、教育の機会もなく何も知らない解放奴隷たちは容易くだまされ、不利な労働条件で契約させられてゆく。むしろ家族的な保護を失って悲惨なことになる者も多かった。といったような逸話があります。
もちろん、これは南部側のバイアスがかかった見方かもしれません。
しかし、どちらかといえば血も涙もないスカーレット(笑)でさえ、乳母役を務める奴隷に親しみ、困った性癖のある少女奴隷をそれなりに受け入れ、黒人老僕に亡父の時計を与えるなどの行動を思うと、このあたりは日常的な描写であるだけに、南部の「主人」にも、普通は情があったものと思われます。
子ども向けのものしか読んでいませんが、『アンクル・トム』も途中までは人間的な「主人」に恵まれ、それなりの暮らしをしていたと記憶しています。
そして南北戦争終結から、公民権運動によって黒人の権利が拡大するまで百年かかっていることを思えば、北部の良心とやらも語るに落ちたというものでしょう。
公民権運動後、アンクル・トムは「白人に従順なおべっか使い」「白人に媚びる卑屈な者」という意味の蔑称になりました。それだけ黒人の意識が高まったということですから、いいことなのでしょう。
けれど、そこにこもった憎悪と悪意にわたしは抵抗感を覚えます。
そういえば、元ボクサーのモハメド・アリは「差別と戦った英雄」みたいな神話に包まれています。しかし、彼は白人と黒人は永遠に交わるべきでないとして、むしろ人種差別組織「KKK(クー・クラックス・クラン)」と結びつき、交際していたといいます。
「KKK」とは何度か結成された別々の組織を指していて、最初は南北戦争終結後、南部の元軍人らによる組織で、自警団的な働きをしたり黒人に対する示威行動をする程度だったものが、やがてエスカレートしてテロ組織になり果てたもの。
これは、良心的な層が離れていったことと、彼らの望む「白人と黒人は分離されるべき」という法律が整っていったことで消えていきます。
2つめが普通「KKK」といわれて想像するもので、1915年、霊夢を見たとかいう人間により創立されたもの。これも人数が集まるにつれて過激化していきます。
白ずくめの変な衣装や燃える十字架などのこけおどしは、いかにも貧困層のファンタジーといった風情ですが、有色人種・ユダヤ人を残忍な方法で虐殺する、初代よりはるかにストレートで危険な組織でした。
この組織は指導層の性犯罪などで瓦解したとされます。しかし、残存組織もしくはこれをモデルとした組織は現在まで常に存在し、黒人の権利が拡大したり景気が悪くなると再燃する傾向にあります。
同胞を焼き殺すような組織との交際が「差別と戦う」ことになるのか。互いの憎悪を媒体として結びつく両者は、本当に怖いと感じます。
そして、その荒れ果てた視点から見たとき、いったいどのあたりから「アンクル・トム」とするつもりなのか。簡単に人にレッテルを貼ってしまう言葉の恐ろしさも感じます。
人類は身のまわりのすべてを分類する比類ない能力ゆえに、敵味方・有用不用などの見分けが早く、ここまで発展したという説があります。
長所と短所は表裏一体、すぐに自分と同じか、違うものかと判定をはじめ、ゆるく共存することが苦手なのも人類。わたしはそう思います。
自分自身に引きこもることが好きなわたしなども、では、自分と違うものとどう接していくのか。こうした歴史を学んで、自分なりの「良き心」を築いていきたいものですが。