本日、2月27日。
雨水
の候だからというわけか、昨日から雨の地域が多いようですね。
雨というので『ふるやのもり』を思い出しました。たいていの人が一度は聞いたことがあるだろう昔話、漢字変換すれば『古屋(家)の漏り』です。
むかし、あるところに子持たずの爺と婆がいた。ふたりは馬を大事に飼っていたが、暮らしぶりは貧しく、雨が降るとひどい雨漏りがする、古い古い家に住んでいた。
ある雨の降る日暮れ、山から狼が下りてきて、爺婆の馬を取って食おうと考えた。ちょうど同じ時、悪い人間が爺婆の馬を盗もうと考えた。
狼が爺婆の家の戸口の下にひそんで様子をうかがい、悪人が屋根に登って様子をうかがっていたところ、中の爺婆が「この世で一番怖いものは何か」と話し始め「狼も怖い、盗人も怖いが、なにより怖いのはフルヤノモリだ」「今夜あたり、フルヤノモリが来そうだ」と、それは恐ろしそうにしている。
さて、話を聞いた狼と盗人はふるえあがった。フルヤノモリとは何かわからないが、盗人はすぐこの家から離れようとあわてて足を踏み外してしまい、狼の上に落ちたからたまらない。
どさっとこられた狼は「フルヤノモリが襲ってきた」と必死でふり落とそうとし、正体の知れないものの上に落ちた盗人のほうは「これがフルヤノモリだ、落とされたら終わりだ」と必死でしがみつく・・・
このあと、伝承により少しずつ異なりますが、狼と盗人はめちゃくちゃに逃げまどったあげく、盗人が上手く逃れるか、どこかに落ちるかして別れ、のちほど、狼から恐ろしいフルヤノモリのことを聞いた動物仲間が別れたあたりに様子を見に来て、またお互いの恐怖感から空騒ぎを演じる、そんな笑い話です。
古屋の漏りとは文字通り、古い家屋で雨漏りがすること。
昔はどこも、かやぶき屋根です。かやぶきの「かや」とは、ススキ・アシ・カルカヤなど屋根材にするイグサ系植物全体を指す言葉で、たとえばススキなら20年ほどで寿命がきます。麦わらや稲わらだともっと弱いそうで、材料が劣化すると水はけが悪くなって雨漏りが起き、屋根が腐ったりするのです。
かやぶき屋根を保つには、集落の近くに「カヤ場」などと呼ぶ草っ原を持って材料となる植物を育て、秋には総出で草を刈り、屋根葺きにそなえて備蓄します。昔の集落には「結(ゆい)」などと呼ばれるシステムがあり、こうした草刈りや草の運搬をはじめ、水路の手入れ、田植え、味噌作り、屋根葺きなどの大人数が必要な時には助け合ったといいます。
では、爺と婆はなぜ雨漏りのする家に住んでいたのか。
実は、子持たずの年寄りは充分な労働力を提供できませんから、こうした「結」には入れなかったのです。昔だろうが田舎だろうが、世の中は甘くありませんね。助け合いというからやさしげに聞こえますが、単純に相互扶助のシステムだったわけです。
老人福祉などない時代、特に子のない爺婆の老後は暗黒でした。昔話に「こどものいない老夫婦に福が授かる」話が多いのは、現実が悲惨だったための裏返しといわれます。
『ふるやのもり』も、一見、特に福など授かっていないように見えますが、老人ふたりの暮らしの中で、馬はどれほどの支えだったことか。精神的な意味ではなく、労働力として、現実的になくてはならないものだったはずです。それが助かっただけでも「福」なのです。
これは私見ですが、おそらく『ふるやのもり』の原型は『ねずみ経』同様、災いを退けたところまでの話だったのではないかと考えます。それが伝わってゆくうち、馬の存在にこもった切実さがわからなくなり、誤解で怖がる面白さのほうが強調されて、後半の動物話が付いてきたのではないか。そんなふうに想像しています。
昔話に「継子話」が多いのも、同じような土壌からのものだと思われます。子持たずの爺婆やいじめられる継子といった、ハッキリ自分より不幸な者が一発逆転、福を授かる。その話を聞いたり語ったりすることで、やはり貧しく苦しい暮らしをしていた人々は一種の開放感を得たのでしょう。
なにやら近頃の「不幸話」「苦労話」の祭り上げを思い出しました。
なぜ、これ見よがしな「不幸話」まで流行るのかと思っていましたが、こうしてみると、「わかりやすくハッキリ不幸で、それをハッキリ逆転した」存在は、いつの世にも必要なキャラクターなのかもしれませんね。