本日、2月26日。
HDD録画しておいたTV番組を整理していたら、世界遺産の紹介番組で、フランスの「フォントネーの修道院」をやっていました。
信仰の根本に立ち戻り、厳しい戒律に従ったというその修道院の聖堂内には、十字架さえなかったといいます。しかし、修道院の創設者である神学者ベルナールが亡くなると、聖母マリア像が置かれます。
人というものは、やはり目に見えるものに弱く、偶像崇拝はなくならないものなのだなと思いました。そこでふと、奈良の大仏を思い出しまして…、
天平16年の今日(グレゴリオ暦744年4月17日)、聖武天皇
が恭仁京(くにきょう)から難波京(なにわきょう)に遷都しました。
聖武天皇は何度か取り上げているとおり、権力が藤原氏に集中する転換期にあたった天皇で、奈良の大仏を建造させた方でもあります。
藤原氏の女性を母としているため、かなり藤原氏寄りの立場だったと思われますが、皇后である光明子(こうみょうし)の立后など藤原氏のゴリ押しによって多くの犠牲者が出た呵責、またそのゴリ押しをした人々が疫病で根こそぎ死んでしまった恐怖などから、後年の聖武天皇には藤原氏と距離を置く意識があったともいわれ、恭仁京は対抗勢力・橘氏の本拠であったようです。
橘は藤原氏の大躍進のもととなった不比等(ふひと)の妻・三千代が天皇から賜った姓。
この夫妻は官僚として女官として抜け目なくよく働いた人たちですが、特に三千代が聖武天皇に先立つ女帝たちに信任されていたことが、藤原氏の娘を皇太子に近づける要因だったとされ、藤原氏の発展に大きく貢献した人といえるでしょう。
しかし、子や孫の世代になると、藤原氏と橘氏の立場の違いが出てきます。橘氏を継いだのが、三千代の最初の結婚相手の子で、皇室の血を引いていたこともあると思いますが、すでに親戚縁者の中で権力闘争が始まっていたともいえそうです。
それゆえ、恭仁京への遷都は藤原氏の影響を弱めようとした、と考えられます。わたしが昔読んだ本では、たいてい聖武天皇はノイローゼ状態に陥っていて、藤原氏と怨霊・たたりなど不吉なものから逃れようと恭仁京、そして山深い紫香楽宮(しがらきのみや)、難波京と逃げまどったあげく、結局は抗しかねて平城京へ戻った、という経緯でした。これはのちに、唐突に出家してしまったともいわれる譲位のいきさつからしても、ありそうな話だと思っています。
不安にむしばまれた天皇は仏教にすがり、それを形とするべく、あれほど大きな仏像を思いつきます。タリバンに爆破されたことで有名なバーミヤンの仏像のように、西域で大仏を作ることが流行り、それが中国を経て日本にも伝わってきたとみられますが、それにそのまま飛びついたについては、天皇の弱り果てた心が「大きなカタチ」を求めたのだろうと思います。
誰でも「目に見えるもの」には安心感を抱きます。まして救われたい、助けて欲しい時には、確かさを求めて「カタチ」を欲しがり、それも大きく立派な外見に惹かれてしまいます。フランスの修道院に置かれたマリア像も、画面で見る限りかなり大きなものに見えました。
最後まで十字架すら装飾として退け、あるかないかもわからない精神世界だけに向かい続けたベルナールは、とても強い人だったのでしょう。
たいていの宗教、キリスト教も仏教も、実は偶像崇拝を戒めています。けれど、厳しい修道院であえて修行する修道士たちであっても「カタチ」というよりどころがないと保たなかった。人間というものは、かよわいものです。
そして、それでは、仏像というものがもたらされるずっと以前、ただの自然や微妙な気配をあがめていた古代日本人はどういう心持ちだったのか。わたしたちには想像もできない、素朴で健康な強さがそこにはあったのだろうか。なんてことを考えたりしています。