本日、2月8日。
針供養の日です。12月8日におこなう地方と2月8日におこなう地方がありますが、この両日は「事八日(ことようか)」といわれ、12月8日は農事を終える「事納め」または正月準備を始める「事始め」であり、2月8日は農事を始めるとされた「事始め」または正月の飾り棚などを片づける「事納め」で、両日ともに身をつつしむ日とされ、針仕事を休むべきだと考えられていました。「果ての二十日
」同様、山へ入ることを禁じたり、仕事を早めに終えるよう諭す伝承なども多く、この両日も「斎日(いみび)」だったのでしょう。
斎日には青物を切らないとか刃物を使わないといった、金属に対する特別なタブーがあることが多く、針仕事の休止にも関わると思われます。
古代中国には、金属は特殊な神霊・不自然な神霊を宿すという考えがあり、それゆえ人殺しという異常なことをする戦場では、まず金属の鉦や銅鑼を鳴らして非常の神霊を降ろしたのだそうです。そうした信仰の影響もあるのか、それともやはり「切る」「刺す」と強力なことができる金属に対する、人類共通の畏怖があったのでしょうか。
ふと、ひょっとすると「形を変える」からかも…と思いました。古代日本ではチョウやガなど、さなぎを作って形を変える虫への信仰心がありました。先日書いたカイコのいわれは「おしら様」という有力な神さまにつながりますし、「常世虫(とこよむし)」といって虫を拝む、古代の「新興宗教」が起きたこともあります。こうした考えは「メタモルフォシス(変態)」への驚異の念からという説があります。ならば、切ったり縫ったりして、原料とは違う別のものを作り出すのも同じ神秘ではないか。モノにもそれぞれに魂が宿ると考えたのなら、動植物から食物になり、布から衣になる時も、あらたな魂が宿るわけだから、それをおこなう金属はなおさら強力な神と考えられないか。
ぶきっちょで、手技ですてきなものを作る人がとてもえらく、とても不思議に見える実感から、こんな想像をしてみました。
話を戻して、針供養は多くの寺社でおこなわれますが、基本は淡島(あわしま)神社だといわれます。淡島さんは女性の守り神。婦人病をなおす神として知られ、子授け・安産から女性の技芸の上達まで助けてくださる神さまとされます。もちろん裁縫も淡島さんのご専門。古い針をお納めするのは当然だったといえましょう。
ところで、淡島さんは正体がはっきりしない神さまでもあります。少彦名神(すくなひこなのかみ)とか、住吉神社の神さまの奥方とか、淡島そのものという説もあります。淡島とは国産みの時に二番目に生まれた神で、障害があったため流されて神のうちに入れないとされる存在です。Wikipediaでは「要出典」とされている説ですが、わたしは故郷の淡島堂(淡島さんを祀るお堂)で聞いたことがありましたので。
このうち少彦名神は、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)の前にガガイモの実の船で現れたという、常世の国から来た小人の神さまです。『古事記』ではこの時、少彦名神は蛾の皮をまとっていたとされます。マルチな神さまで、国土整備・農耕・医療などの技術を伝えつつ大国主命と国を整え、最後には植物の茎に登って、茎をたわめた反動で空へはじけ飛んで帰っていったといわれます。確か、澁澤龍彦氏が「一連の逸話は虫神を表す」とする説を唱えておられたように記憶します。
和歌山の淡嶋神社の由来によれば、朝鮮に出兵した神功皇后 が海路で嵐に遭い、大国主命と少彦名神を祀った島にたどり着いて助かった。そののち孫の仁徳天皇がご神宝を陸に移して祀ったのが始まりとのこと。でも、なんとなくですが、全体には由来も祭神もはっきりしない淡島さんは、もっと古い土着の信仰であるような気がします。その意味では、神とされない古い存在や、天津神でも国津神でも なく『記・紀』の神さま体系におさまらない少彦名神と結びついているのは、面白いと思いますね。
日本は新しいことを取り込むのが上手な国です。新しいものに対する抵抗感がほとんどありませんよね。ただ、新しいものを喜ぶあまり、もともとあったものを絶滅させたり行方不明にするのも上手。となると、由来のはっきりした行事や神さまより、よくわからなくなっているもののほうが、実は古くて国土に根ざした大事なものだったりするかもしれませんね。