本日、2月6日。
ぶ(2)ろ(6)ぐの語呂合わせで「ブログの日」です。2007年に制定したのは、どこあろう「サイバーエージェント」(笑)。なんか記念日的なことはやらないんですかね?
わたしとしては、絶対「風呂の日」とくると思っていたのですが、フロはフロでも「風炉」のほうにかけて「抹茶の日」でした。ちょっとくやしい(笑)。
風炉とは、茶道で使う、茶釜をかけて湯をわかす炉のことで、ざっくり言って小さい「火鉢」とか大きい「香炉」を思い浮かべるとだいたいOKだと思います。金属製から木製・土製など素材はさまざまです。冬のあいだは「炉」=「いろり」と同じ構造のものを使い、およそ5月初めから10月末までの暑い時期に「風炉」を使うので「風炉」は夏の季語でもあります。
茶道とは、一番有名な千利休さんに言わすと「ただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかり」となります。ホントにひねくれ者ですね(笑)。まあ、あれこれ定まっている所作の決まりごとなどは、すべてうつくしく合理的で、湯を沸かし茶を点てて飲むのにもっとも適した動きを追及してあるということなのでしょう。こういう、シンプルなようでいて余白にどっさり何か入ってる、みたいなのが利休の真骨頂だよなぁと、わたしは思っています。表芸の「おもてなし」精神に加え、この無作為への作為って感じも、日本文化に多大な影響を及ぼしていると思います。
正直言うと、わたしは「朝顔」の逸話のような不自然さがあまり好きではありません。利休の邸の庭で朝顔が一面に咲き、とてもうつくしいと聞いた秀吉が訪ねていくと、朝顔はすべて切り取られていた。そして茶室の床の間に一輪だけ活けられていた。一輪ゆえの美、というのですが、自然に無心に咲いていたものを無理やり変えてしまうあたり、ちょっとなぁって思うんです。
庭をきれいに掃除し、最後に落葉をわざとまいて「このほうが自然でいい」とかね、自然に見えるように不自然なことをする、利休の感覚にはある種の不健全さがあります。まあ、できあがった露地(ろじ=茶室の庭)は深山のおもむきがあり、見ていてうつくしいなとは思うんですが、その裏に「ここはわざとふぞろいに」とか「わざと荒らして」なんてたくらみがあると思うと、ねぇ。
そういえば、利休の「佗茶(わびちゃ)」に対抗するかのように、キンキラの黄金の茶室を作ったといわれる秀吉ですが、実はあの茶室は非常に洗練されたものです。
江戸以前の日本の家屋は軒が深く、採光に問題がありました。明治維新後、軒や窓が変化したのは、洋書を読むには暗かったことが一因という話も聞いたことがあります。つまり、光が当たっている状態で黄金を見てはいなかったということです。黄金の茶室を当時の灯りと同じように照らす試みをTVで見ましたが、ほの暗い中で鈍く光を放つ黄金は幽玄そのもの、異界へいざなうかのようでした。
人工を否定し自然を好むように見えて、実はなにより人工的。人工の極み、洗練の極みである黄金の茶室のほうが素直で、ある意味自然。ややこしいことですが、こう書いてくると、日本人は世界から言われ、自分たちで思うほど、自然とともにあるわけではないような気もします。