本日、1月27日。
鎌倉幕府三代将軍・源実朝が甥の公暁(くぎょう)に暗殺された日です。建保7年、グレゴリオ暦なら1219年2月20日のことでした。
昨年、まだ「何の日」ネタを決まりにしてた時、他に書けることがなくて無理やり取り上げたことがありますけども(「源実朝と頼家そしてまた仇討ち
」)、兄の頼家のことや鎌倉将軍周辺のゴタゴタを主に書いて、暗殺事件そのものは流してしまったので、もう一度くわしく書いてみようと思いまして。
先の記事で「昔は、この陰に北条氏がいたといわれましたが、さすがにその説は引っ込んだようで、公暁の乳母一族・三浦氏が、北条氏打倒を狙ってそそのかしたといわれています」と書いたあたりのことです。
平安の昔から、上流の女性は我が子の育児をしないものでした。何をしていたかといえばひとつ上の階層のこどもを育てていたのです。下流貴族は中流貴族のこどもの「乳母(メノト)」となり、中流貴族は上流貴族のこどもの「乳母」となり、上流貴族は公家のトップや天皇家に仕えて働いたわけです。
このあたり、江戸時代の江戸市中の女性が家事をせず、自分の家の食事は煮売り屋で買ってすませて、物売りをしたり富家にやとわれて働いたりしたのと似て見えます。明治以降のイメージによって、女性は家事・育児ばかりしていたように思いがちですが、むしろキャリアウーマンのほうが「大和撫子の伝統」といえるでしょう。
実朝より少しあとの時代になりますが、自伝的な『とはずがたり』という書物を書いた「二条」という公家の女性は、おおやけにできない妊娠出産をしたため「自分でこどもを育てるなどという情けないことになった」「乳母がいないとは哀れすぎる」とたいへんに嘆いています。乳母制度はこれほど「当然」のものであり、日本の歴史の中で欠かせないファクターといえます。
くり返しますが、「乳母(メノト)」は「乳をあげる女性」でも「子守」でもありません。その夫は「乳母夫」と書いて同様に「メノト」と読みます。メノトがその家すべてにかかわる職務であることがわかりますね。
一家をあげて「養君(やしないぎみ)」に仕え、その家の子は幼少から側にいるので、友人に近い側近になりやすく、男君×女子の場合は恋愛ないし婚姻関係になることが多いです。
頼朝が流罪になった時も、彼の「乳母」であった比企尼(ひきのあま)は仕送りを続けたといいます。そうした「奉仕」がどうなるかというと、頼朝がエラくなるや比企氏は優遇され、長男で跡継ぎの頼家の「乳母」に任命され、当主の娘が頼家の側室となって子を生み、「将軍のお子様の外戚(がいせき=母方の親戚)」として権勢をふるったりできる…という感じです。
比企氏は頼朝の嫁・北条政子の実家である北条氏との政争にやぶれ、一族滅亡の憂き目をみましたが、北条氏の権勢ひとりじめを面白く思わない人々は他にもごろごろいました。
そもそも、北条氏は伊豆の小豪族にすぎません。関東の他の大族(たとえば千葉氏など)を抑えて「伊豆幕府」が作れなかったあたりに、立場の弱さがみえています。逆に他家の人々からすれば、たいした家でもないのに「鎌倉殿」の身内をいいことに、のさばりやがって…ということになりやすいわけです。
頼朝にしてみれば、大切なのは「北条家」ではなく「源家」。長男に比企氏、次男に北条氏の「乳母」をつけたのは、ナンバー2を噛ませ合って源家を安泰にする智恵だったのかもしれません。ただ、残念ながら彼は急死し、比企氏はつぶされ、頼家は幽閉ののち暗殺、幼い実朝将軍と不安定な政局だけが残りました。
実朝暗殺について「北条氏が陰にいた」というのは、おとなになった実朝が言うことをきかないので殺して、幼少の皇子を将軍にかつごうとした、という説です。しかし、こうみてくると、北条氏が実朝を殺せるはずがないと思われます。身内であることだけが取り柄の彼らには「頼朝の息子」は大切なカードだったはず。しかも自派で育てた「純正」ですし(笑)。
これに加えて、実朝が鶴岡八幡宮に向かう際、太刀持ちをするはずだった北条義時(政子の弟)が別の人と交代し、その人は実朝と一緒に斬られているため、義時=北条氏が公暁の共犯だった、と考えられたようです。しかしこれも、本当に知らなかったからこそ不細工な交代をしているように思えます。朝廷からの使いを迎える大きな儀式なのですから、企みならもっと目立たないよう逃げ出していたと思いますね。
おそらく義時は直前に察知したのでしょう。敵も多くの兵を抱える武家。儀式の中止など、騒ぎすぎてもかえって直接の戦乱を招きかねず、出遅れた以上は状況がわかるまで動けません。やむを得ず、自分だけギリギリ逃げたのではないかと想像します。
かたや公暁の「乳母」である三浦家は、その名のとおり三浦半島を本拠とする一族。鎌倉には一番の近さです。地の利を活かし、養君を将軍に押し上げてしまおうと考えるのは自然だと思います。だからこそ公暁は、義時であるはずの太刀持ちも一緒に斬ったのでしょう。
北条氏のトップが死ななかったため、こと面倒とみた三浦家は公暁を見捨てます。下手に挙兵するあやうさをよく知っていた当主のもと、三浦氏はこののち三十年ほど命脈を保ちました。
頼家の子は長男が比企氏とともに亡くなり、次男が公暁、三男も公暁に先立ち反北条勢力にかつがれて失敗・自害。公暁と母が同じ四男は共犯の疑いをかけられたあげく殺されます。実朝には子がいなかったので、頼朝の直系男子は、この事件によって誰もいなくなりました。さらに頼家の娘も難産で母子ともに亡くなり、その血筋は完全に絶えます。
将軍家の血が三代で滅びたことに、敵対者の子孫をけっして許さなかった故・頼朝への報いという見方もあったそうです。
鶴岡八幡宮には平家の滅亡と源家の栄えを象徴する設えがちりばめられているそうですが、そこで悲劇が起きたのはなんとも皮肉なことです。