ブログネタ:悲しくなる歌
本日、1月23日。
けっこう災難の多い日で、まずは先日ふれた「八甲田山遭難事件
」が起こった日。
そして1910(明治43)年、神奈川県にある男子校・逗子開成中学校の生徒12名がボートで遭難、全員が亡くなった日でもあります。
この事件の鎮魂歌として、同校の先生が作詞してできたのが「七里ヶ浜の哀歌」です。一般には歌い出しの歌詞から「真白き富士の根」と呼ばれました。
最初のレコードが1915(大正4)年。ただ、戦後にもこの事件が映画化されたりしていて、長く知られた唱歌ですので、懐メロ番組とか、由紀さおり&安田祥子さんあたりの歌で聴いたことがおありの方もおいでかと思います。
では、この歌はどうかというと、個人的には「とにかくきれいな歌」なんですね。作曲者はアメリカ人、というか、もともと白人霊歌=賛美歌なのだそうで、それに歌詞をつけた「替え歌」的なものだったらしいです。景色のうつくしさまで詠み込んだ文語(古典語)の歌詞も心地よく聞こえ、小さくてよく意味がわからない頃は、でっきり風光明媚な湘南の「ほめ歌」だと思っていました。正直、きれいすぎて悲しくはないんです(笑)。
ちなみに、事件そのものをWikipediaに当たると【休日に無断で学校所有のボートを海に出した生徒ら12人が七里ヶ浜沖で遭難し、全員死亡する事故が発生した。この事故の補償のため、当時経営母体が同一であった鎌倉女学院が所有地の売却などをした】のだそうです。遭難原因は定員オーバーといわれているそうで、休みのあいだに勝手に持ち出したものを、なぜ学校が補償するのかよくわかりませんでした。
というわけで、ブログネタのほうの要件を満たすのは別の歌となります。
先日「宿下がり
」について書いたところ、昔の「子守唄」についてのコメントをいただきまして、はっと思い出した歌です。
今のように食物が豊富になったのは、実はここ数十年の話にすぎません。死亡率の高さから「子だくさん」が望まれたものの、全員を手元に置くことなどできませんでした。ストレートに「口減らし」といい、食べる口を減らしたうえにいくらかの金も手に入るので、貧家のこどもは七~八歳ほどで「奉公」に出されたのです。
この場合の「奉公」とは住み込みで働くことで、期限までは勤め上げることが条件の「年季奉公 (ねんきぼうこう)」という雇用形態でした。たいていは親に金が渡され、この「借金」を労働で返す形になっています。
期限がくるまで、つらくても家へ帰ることはできない。
たいていは「子守奉公」をした幼い女の子たちは、家を恋い、親を恋い、泣き止まない赤児のために叱られるつらさ苦しさを「子守唄」の形で表します。
「五木の子守唄」
おどま 盆ぎり 盆ぎり
(おどん=自分は盆が限り、盆までが年季)
盆からさきゃ おらんと
(盆から先にはここにはいない)
盆が早よ来りゃ 早よ戻る
(盆が早くくれば早く家に戻る)
おどま 勧進 勧進
(自分は勧進
=寄付を集める行為が転じて物乞いのこと)
あん人たちゃ よか衆
(あの人たちは家柄のいいお金持ちの人たち)
よか衆 よか帯 よかきもん
(恵まれた人は上等な帯をして上等な着物を着ている)
おどんが うっちんだちゅうて
(自分が死んだからといって)
だいが泣いてくりゅうか
(誰が泣いてくれるだろうか)
裏の松山 セミが鳴く
Wikipediaによれば「五木の子守唄」は伝承者によりさまざまな歌詞が伝わっているそうで、これは完全にわたしの記憶によるものです。三番の突き放しぶりが尋常ではなく、ある意味、整いすぎているので、ここは誰かが書いたものかもしれません。
この三番が、いずれはひとり死んでゆく人生の姿、無関心なセミしぐれとあっけらかんとした夏のさみしさ、実は人の死などこれほどに軽いのだという思いとともに、こどものわたしの胸に刻み込まれた歌です。