本日、1月9日。
「風邪の日」です。寛政7年のこの日(グレゴリオ暦1795年2月27日)、横綱である二代目の谷風梶之助(たにかぜかじのすけ)がインフルエンザで亡くなったことにちなみます。
この谷風は第四代横綱で、史上最強ともいわれる力士。Wikipediaによれば、この「谷風」の名は「止め名」、つまり野球でいう永久欠番みたいな扱いなのだとか。そんなにも強いので、インフルエンザが流行った時に「土俵上でわしを倒すことはできない。倒れているところを見たいのなら、ワシが風邪にかかった時に来い」と言ってたら、10年後の大流行の時にかかってしまったのだそうです。
享年44歳、現役のままの死です。
190センチ近い巨体だったといいますから、当時の人にすれば、その軽口の因縁も加えて、小山のような強い強い大横綱まで冥途(めいど)につれていった、この病魔がさぞ怖かったでしょうね。
もちろん、今でもインフルエンザは怖い病気です。かからない、うつさない、お互いに気をつけましょう。
さて、昨日はゆるベジ話を続けたので、1月8日にゆかりのある人を取り上げることができませんでした。
ホントにね、書けることが何ひとつない日も多いのに、どういうものか重なる日は重なるのですよ。
承安3年1月8日(グレゴリオ暦1173年2月28日)、鎌倉時代の僧侶・明恵(みょうえ)が生まれました。華厳宗(けごんしゅう)の中興の祖とされる人で、浄土宗をおこした法然と対立した人でもあります。
ただ、わたしはあんまり宗派などには興味ありませんで。何を心に置こうとも、その人が救われ、その人のおこないがより善いものになるのなら、それでいいじゃないの、と思うからです。
ゆえに、明日をも知れぬ乱世において、ただ一心に念仏すれば救われると説いた法然や、その弟子・親鸞(しんらん)に大慈悲を感じますし、逆に、常に緊張感を持って生きよと言う明恵の純粋性を尊敬しています。
明恵上人の座右の銘は「阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)」だったそうです。
人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)の七文字をたもつべきなり。
僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。
ないし帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。
このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり。
世の中の皆が「あるべきようは」を常に考え、その態度をたもてば、何の問題もない。
こともなげに言ってくださいますが、いついかなるときも、その場その場の「あるべきようは」どの姿か、本当にふさわしい姿を常に見いだして実践するのは、とほうもない難問です。
ここでわたしは、もうひとりの尊敬する人物・晏嬰(あんえい)を思い出します。
国の大乱がおさまったのち、君主である斉公は公室側についた臣たちにほうびを与えようとする。ところが、目立つ立場にあった晏嬰がそれを断ってしまったので、他の者も受け取りにくくなった。腹を立てたひとりが「富は誰しも欲するもの、なにゆえ欲しないのか」と詰め寄ると、晏嬰いわく「富を憎むにあらず、富を失うことを恐れています」。そして、布の幅が決まった寸法でないと取引などに不便が生じることをたとえとし「利過ぐればすなわち敗をなす」、それぞれが自己都合で幅を決めれば不便になるように、利益ばかりを求めると不利益を招く、と説きます。
それを「利に幅(ふく)す」=利益に一定の幅があるべき、なにごとも幅を守ればよい、と言ったそうですけれども。これは『晏子』の中で著者・宮城谷昌光氏も訴えておられることですが、それでは、絶対的に許された自分の「幅」とはどのくらいなのでしょうか。
これまた、心魂すぐれた人はこともなげに言ってくださいますことで。
昨今、流行りの「自分らしく」。
本当は、この言葉も、ものすごくむずかしいものだと思います。人種や国籍、年齢や男女の別、社会的立場、現在の自分の都合や自己主張、そんなものから本当に自由になって、なにものにもとらわれない「自分自身」を見つけること、できるものなのかなと思うくらいむずかしいです。
せめて自分のなかに、たくさんの考え、たくさんの見方、たくさんのモデルを持っていたい。
そう思ってたくさんのことを知ろうとしているのですが、なにしろ成長しない脳ミソのわたくし、脱線しては迷子になっているのでありました。やれやれ。