本日、12月31日。
とにもかくにも、大晦日(おおみそか)です。
ミソカとは30日の意で、三十路(みそじ)のミソ、10日(とおか)・20日(はつか)のカ、と思えばわかりやすいかと思います。
ミソカは毎月の「月の最後の日」を指します。旧暦では小の月が29日、大の月が30日までだったので、最大であるミソカがそのまま「月末」の意になったのです。
そのミソカたちの最後を飾る、いわばトリだから「大」ミソカというわけです。
大晦日にはソバを食べる習慣がありますよね。
実はもともと「みそかそば」または「晦日(つごもり)そば」といって、どの月末にも食べるものだったそうです。商人の家の習慣で、忙しい月末、ねぎらいの意味で奉公人(=使用人・従業員)たちにふるまったのだとか。
なぜソバなのかについては謎ですが、ソバ粉は金箔・銀箔をあつかう細工師が作業に使ったため、金銀を集める縁起物という見方があったようなので、商売繁盛を祈る気持ちの表れかもしれません。
また、ソバを食べると脚気(かっけ)にならないと信じられていたこともありそうです。
お江戸はまさしく「白いマンマ」が好まれる場所で、田舎から来る奉公人は精米を楽しみにしたけれども、今まで栄養豊富な玄米を食べていたのに精米に変えることで実は栄養不足になりがちだったと聞いたことがあります。
脚気はビタミンB1不足で起きる、足がしびれたりむくんだりする病気。ソバはビタミンB1・B2が豊富な食品なので、これはあながち迷信ではありません。月に一度のソバで栄養補給、ちょっとした福利厚生みたいなものでしょうか。
こうした習慣が商家以外にもひろまって、今のような「年越しソバ」のならわしになっていったといわれています。
年越しソバの縁起担ぎは、よく知られている「細く長いことから長寿を表す」のほかWikipediaによると「ソバは切れやすいので、一年間の嫌なことの切り捨てを表す」とか「ソバは五臓(内蔵)の毒おろし」「ソバが丈夫であることから、健康を表す」など、いろいろあります。
こうみてくると、ソバでないと縁起が成り立たないことも多いんですね。
ソバは貧しい地域の貴重な食べ物だったと聞いています。Wikipediaによれば【種まきから70~90日程度で収穫できることから、救荒作物として5世紀頃から栽培されていた】とのこと。救荒作物(きゅうこうさくもつ)とは、飢饉にそなえて自分たちが食べるために作る作物で、土地を選ばず、比較的手がかからないものが選ばれました。また、ソバは【冷涼な気候、雨が少なかったり水利が悪かったりする乾燥した土地でも、容易に生育する】ということで、確かに、コメの栽培がむずかしい荒れ地や山間地でも作れる作物だったようですね。
以前に「白川郷・五箇山 」の記事でも少しふれたように、山間部は土地があまりありません。河川が下流になるほど広く平らかになることを思えば、源流に近く起伏の多い山あいでは水利もむずかしいでしょう。
そういった土地でも育ったソバは、まさしく村人の「命綱」であったと思います。
そんな大切なソバを、作らなくなったという伝説があります。
むかし、海ぎわに城をかまえる武将と、山あいに城を持つ武将のあいだで大きな戦があった。山あいのほうがさんざんに負けて、多くの武者たちが戦場から逃げ落ちた。敵に見つかれば命はないし、武具や着物を目当てに行き会った者に殺されることもあったから、落武者たちは生きた心地もない。疲れ果て、手傷を負いながらも、皆が自分たちの領地めざして必死で逃げた。
その中にけが人を含む、五人ほどの集団がいた。夕闇のなかであたりをうかがいながら、肩を貸し合い、けわしい峠を登ってゆく。「あと少しだ。この峠を越えれば、われらの土地だ」。倒れそうになるとそう励まし合って、彼らはやっとの思いで峠のてっぺんに出た。
ところが。
昇ってきた月に照らされた眼下の光景は、一面の白い波。「なんということだ、道を間違えた」「ここは敵の本拠ではないか」落武者たちは絶望の悲鳴をあげた。そして「この上は、いさぎよく死のう」と全員が腹を切った。
翌日、山へ入ったふもとの村人はびっくり。かすかに息があったひとりを介抱するが、彼も助からなかった。この武者から事情をきいた村人は絶句する。実はここは、彼らの領地だった。月明かりの中で彼らが見たものは、白く輝きながら波打つソバ畑だったのである。
村人たちは心から落武者を哀れみ、この村ではけっしてソバを作らなくなったという。
落武者のたたりが怖かったんじゃないの?なんてツッコミは、なしにしましょう。
自分たちの「命綱」をかけてでも、他人のつらさ・苦しみを思いやる人々がいた。素直にそう思い、心洗われる想いで、新たな年を迎えたいと思います。