本日、11月19日。

奈良期以来、約900年ぶりの女帝となった江戸時代の天皇、明正(めいしょう)天皇ご生誕の日です。
後水尾天皇の皇女で、母は徳川二代将軍・秀忠のむすめ和子。つまり明正帝は、いわゆる「江姫」の孫に当たる人です。正確には、秀忠の正室となった浅井家の三女の名前は確定されていません。


鎌倉以来、天皇・公家の朝廷と武家の幕府は仇敵のあいだがら。

源氏と北条氏の鎌倉はなんとか幕府による武家政権を軌道に乗せるも、やがて朝廷側の反撃工作で倒れ、後醍醐(ごだいご)天皇による建武の新政、つまりは公家主導の朝廷政権に逆戻り。そして朝廷側と、鎌倉にはムカついてたけど公家の下に置かれるのは嫌だという勢力が争う南北朝時代という混乱期、そしてまた武家政権室町幕府へ…と、殴り合います。

室町将軍・足利家が倒れると、下克上の戦国時代が幕を開けますが、下克上だったからこそ、朝廷もその「権威」を活かして上手く立ち回ったのでは、とわたしは考えています。武将たちはちょっとでもライバルより優位に立つため、朝廷からのお墨付きを欲しがりましたから。

たとえば、上杉謙信の家は分家でしたが、父の代から朝廷とつながりを持ち、特別に格式ある行列が許されるなどしていたことが、やがて本家をしのぐ下準備のひとつになったと考えられるでしょう。また、豊臣秀吉出自による足場の弱さを「関白」=天皇の補佐になったりすることで補強しています。

こうした朝廷の影響力をおさえ、いっそ幕府の権力下へねじ込んでしまいたい。江戸幕府にはそんな思惑があったようです。

あれこれ口出しが増えてゆく幕府に対し、気性の激しい後水尾帝は怒りを隠しません。こんなややこしいところに嫁いだ和子さんも、さぞ大変だったことでしょう。他の選択肢なんてないわけですし。

しかし、もののわかる年頃になり覚悟を決めて嫁いだ人よりも、たまたま、こんなややこしいところに生まれてくるほうが、もっと大変かもしれません。

明正帝には兄がいました。
当然、幕府は彼を天皇にするため後水尾帝を退位させるべく、いろいろと圧力をかけますが、なんと皇子が亡くなってしまいます。すると帝は幕府に一矢報いるつもりか、「退位する。あとは女児に継がせよ」と言い出します。前記のとおり、女帝は途絶えて長く、この当時の感覚ではあり得ないものだったからです。

また、後水尾帝には「院政」=平安末期にあった退位した上皇が実権を握り、政治をおこなうシステムを復活させる狙いもあったようです。

しかし、実は父・家康より「食えないタヌキ」(だとわたしは見てます)秀忠は、孫娘を即位させ、上皇の待遇をその父「後陽成院のとおり」と定めてしまいました。

その定めによれば、院の収入はわずか三千石。お金がなくては何もできないのは、いつの世も同じです。明正帝は幼かったので、朝廷内部のことだけは後水尾院の「院政」となったようですが、それを越えた影響力は持てませんでした。

後水尾上皇が勝利召されたのか、徳川が勝ったのか。

どちらにしろ明正帝には何の発言権もありませんでした。さらに、父側と祖父側(秀忠自身は亡くなりますが)とも、天皇に相手がすり寄らないよう監視合戦を始めます。おかげで明正帝は常に隔離されて見張られているような、不自由な生活を送ったようです。

また「女帝は生涯独身」が皇室の決まりごとであるため、結婚も許されませんでした。

結婚だけがしあわせじゃない、と言えるのは自分で選択した場合であって、幼児にしてすべて勝手に決められてしまった明正天皇はお気の毒だと思います。

ふたりの妹宮が普通に公家へ嫁いでいるのを思っても、結局、二十歳そこそこで異母弟に譲位したことを思っても、ひとときの駆け引きの犠牲になったようで、胸が痛みます。

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ところで中国では、妃や公主(=皇女)が権力をふるった例はあっても、正真正銘の女帝といえば、唐代の武則天(ぶそくてん)ただひとりです。

彼女はもともと太宗の妃だったのですが、寵愛が薄いので、そのむすこ・皇子時代の高宗を籠絡(ろうらく)して、即位した彼の皇后となり、高宗の死後は跡継ぎを廃して自分が皇位につきました

即位後は美形で有能な若い男を集めて寵愛し、側近にしていたそうです。男尊女卑の本家本元でありながら、このたくましさ。かっこいいですね。

どうせ正式な結婚ができないのなら、日本の女帝たちも、若いイケメンとの恋愛ゲームを楽しみながら、彼らを育てるくらいの度量が発揮できたらよかったのに。いろんな意味で残念に思います。