本日、11月13日。
「漆(うるし)の日」です。
日本漆工(しっこう)協会が1985年に制定しました。
伝説では、文徳天皇の第一皇子である惟喬(これたか)親王が京都・嵐山の法輪寺にこもってお祈りし、仏さまから初めて漆の技術を教わったといい、その満願(定まったお祈りの期間が満了すること)日が11月13日だったのだそうです。
惟喬親王は天皇の長男ながら、母の出自が低かったことと、当時の政界の実力者・藤原良房(よしふさ)の息女が生んだ皇子が他にいたことから皇位につけず、実権のない名誉職を歴任したあと比叡山のふもとにひっそり暮らしました。
こういう「悲運の貴公子」というのは神格化されやすく、前出の漆伝説のほかに、木地師(きじし)の祖ともいわれています。
木地師とは、ろくろを使って木を削り、お椀などの木工品を作る職人のことです。木を扱う仕事柄、人里ではなく山奥のほうに住んでいて、人民が勝手に移住できなかった時代も朝廷や幕府の特別な許可のもと、よい木材を探して移動することが多かったため、また、里とは異なる伝説や信仰、独特の風習を持っていることからも、里人のほうからは神秘的な存在・人外の存在と見られることもあったようです。
さて、惟喬親王を押しのける形で皇位についた清和天皇のほうはというと、祖父・良房に首根っこを押さえられている感じで、おとなになってから彼を「摂政(せっしょう)」に任命しています。「摂政」とは、もともと幼少の天皇を補佐する役目のことですから、少々おかしな話にも思えます。
そしてそののち、清和天皇は18年の治世で第一皇子に位をゆずり、出家して、30歳の若さで亡くなりました。蹴落とされたかっこうの惟喬親王が53歳まで生きていることを思うと、権謀に明け暮れるコワイ親族の「お飾り」でいることも、しんどいことだったのだろうなぁと思ったりします。
清和天皇が元服後なのに保護者役を立てる羽目になったについては、「応天門事件」が大きな影を落としているといわれます。応天門とは、宮中の大内裏のなかでも重要な一画の正門にあたります。それがある夜、突然の出火で焼け落ちてしまったのです。
実際には失火だったらしいのですが、こんな大事な場所が焼けてしまえば、すぐさま政治的に利用されてしまうもの。
伴善男(とものよしお)という大納言が、以前にも謀反をたくらんだとして訴えた左大臣を「あの人が、我が訴えへの嫌がらせに焼いたのだ」と告発します。これはどういうことかというと、宮中の門はそれぞれ貴族の名前にちなんだ名がついていました。伴善男のもとの姓は「大伴(おおとも)」といい、応天門はそこから名づけられた門だったのです。
伴善男は権力者にへばりついて出世してきた陰謀の人。藤原氏の独裁のじゃまになる左大臣をおとしいれようとしたようです。ところが、その藤原氏のトップ・良房がなぜか左大臣をかばい、そうこうするうち「実は伴大納言こそが火をつけた」という騒ぎになっていきます。
どうやら、善男は目立ったばかりに藤原氏のなかでの抗争に巻き込まれてしまったらしく、身分を剥奪されて流罪に処されてしまいました。そして良房は、返す刀で善男を信任していた天皇の責任を追及し、摂政をもぎ取るのです。
善男はとても頭の切れる人だったと伝わっていますが、その彼にして利用され、翻弄され、惨敗させられてしまうほどの権力を持っていた、藤原氏の恐ろしさを感じます。
陥れられた善男は、その恨みから死後、怨霊と化して疫病神(やくびょうがみ)になったといわれます。
亡くなって百年ほどのち、セキの病気が大流行したときに、ある男の前に姿を現して「もっとひどい病気を流行らせてもよかったが、朝廷には恩義も受けたので、セキくらいにとどめた」と告げたとか…。
急に寒くなった昨今、皆さまも伴大納言に取り憑かれないよう、風邪など召されませんよう、ご注意くださいね。
「漆(うるし)の日」です。
日本漆工(しっこう)協会が1985年に制定しました。
伝説では、文徳天皇の第一皇子である惟喬(これたか)親王が京都・嵐山の法輪寺にこもってお祈りし、仏さまから初めて漆の技術を教わったといい、その満願(定まったお祈りの期間が満了すること)日が11月13日だったのだそうです。
惟喬親王は天皇の長男ながら、母の出自が低かったことと、当時の政界の実力者・藤原良房(よしふさ)の息女が生んだ皇子が他にいたことから皇位につけず、実権のない名誉職を歴任したあと比叡山のふもとにひっそり暮らしました。
こういう「悲運の貴公子」というのは神格化されやすく、前出の漆伝説のほかに、木地師(きじし)の祖ともいわれています。
木地師とは、ろくろを使って木を削り、お椀などの木工品を作る職人のことです。木を扱う仕事柄、人里ではなく山奥のほうに住んでいて、人民が勝手に移住できなかった時代も朝廷や幕府の特別な許可のもと、よい木材を探して移動することが多かったため、また、里とは異なる伝説や信仰、独特の風習を持っていることからも、里人のほうからは神秘的な存在・人外の存在と見られることもあったようです。
さて、惟喬親王を押しのける形で皇位についた清和天皇のほうはというと、祖父・良房に首根っこを押さえられている感じで、おとなになってから彼を「摂政(せっしょう)」に任命しています。「摂政」とは、もともと幼少の天皇を補佐する役目のことですから、少々おかしな話にも思えます。
そしてそののち、清和天皇は18年の治世で第一皇子に位をゆずり、出家して、30歳の若さで亡くなりました。蹴落とされたかっこうの惟喬親王が53歳まで生きていることを思うと、権謀に明け暮れるコワイ親族の「お飾り」でいることも、しんどいことだったのだろうなぁと思ったりします。
清和天皇が元服後なのに保護者役を立てる羽目になったについては、「応天門事件」が大きな影を落としているといわれます。応天門とは、宮中の大内裏のなかでも重要な一画の正門にあたります。それがある夜、突然の出火で焼け落ちてしまったのです。
実際には失火だったらしいのですが、こんな大事な場所が焼けてしまえば、すぐさま政治的に利用されてしまうもの。
伴善男(とものよしお)という大納言が、以前にも謀反をたくらんだとして訴えた左大臣を「あの人が、我が訴えへの嫌がらせに焼いたのだ」と告発します。これはどういうことかというと、宮中の門はそれぞれ貴族の名前にちなんだ名がついていました。伴善男のもとの姓は「大伴(おおとも)」といい、応天門はそこから名づけられた門だったのです。
伴善男は権力者にへばりついて出世してきた陰謀の人。藤原氏の独裁のじゃまになる左大臣をおとしいれようとしたようです。ところが、その藤原氏のトップ・良房がなぜか左大臣をかばい、そうこうするうち「実は伴大納言こそが火をつけた」という騒ぎになっていきます。
どうやら、善男は目立ったばかりに藤原氏のなかでの抗争に巻き込まれてしまったらしく、身分を剥奪されて流罪に処されてしまいました。そして良房は、返す刀で善男を信任していた天皇の責任を追及し、摂政をもぎ取るのです。
善男はとても頭の切れる人だったと伝わっていますが、その彼にして利用され、翻弄され、惨敗させられてしまうほどの権力を持っていた、藤原氏の恐ろしさを感じます。
陥れられた善男は、その恨みから死後、怨霊と化して疫病神(やくびょうがみ)になったといわれます。
亡くなって百年ほどのち、セキの病気が大流行したときに、ある男の前に姿を現して「もっとひどい病気を流行らせてもよかったが、朝廷には恩義も受けたので、セキくらいにとどめた」と告げたとか…。
急に寒くなった昨今、皆さまも伴大納言に取り憑かれないよう、風邪など召されませんよう、ご注意くださいね。