本日、10月22日。
延暦13年のこの日(グレゴリオ暦794年11月22日)、時の帝・桓武天皇は山背国(やましろのくに)の北部に都を移します。世に言う「平安遷都」です。
延暦3年、桓武帝は七十年余りの歴史を持つ「平城京」=奈良の都を捨てます。
その背景には、皇統が数代続いた天武天皇系から天智天皇系に移行したこと、奈良仏教の勢力が大きくなりすぎたことなどがあったようです。
初め「長岡京」(現在の京都府南西部)を築きますが10年で放棄、平安京へとさらに遷都します。この早すぎる都の放棄の裏には、骨肉争い、怨霊と化すような、恐ろしい出来事があったといわれています。
桓武帝は光仁天皇の皇子ですが、生母が大陸から渡来した帰化人系だったため皇太子にはなれませんでした。しかし政争の果て、皇太子だった異母弟・他戸(おさべ)とその生母で皇后だった井上(いのかみ)内親王が廃され、皇位が転がりこんできました。
廃されたふたりはやがて不自然な死を遂げます。はじめから血塗られた即位でした。
蘇我入鹿暗殺=「乙巳(いっし)の変」から、「壬申の乱」を経て平城京遷都、女性である阿部内親王の立太子と即位、女帝の連続、政争による桓武帝の即位に至るまで、表(父系)では天智系と天武系が、裏(母系)では蘇我氏と藤原氏がせめぎあった時代だったと思います。
さらに桓武帝の治世となると、勝ち残った藤原氏の中で、内部抗争も始まります。
桓武帝即位にともない勢力を伸ばす帰化人たちの思惑もからんだかもしれません。ともあれ、非常に不安定な政局が続き、たくさんの犠牲者が出ています。
たとえば井上内親王は、大仏で有名な聖武帝のむすめですが、阿部内親王のライバルだった弟は不審死、妹とその子は身分剥奪のうえ流罪、自らもむすことともに庶人に落とされたうえ幽閉、あげくは、ふたりともおそらく暗殺されたものと思われます。
伊勢神宮の斎宮をつとめた高貴な姫君にしてこの悲惨な運命。
けれども、権力に近い人たちは実際にやろうとやるまいと、また本人が権力を望もうと望むまいと、呪詛・謀反などの罪を問われるか暗殺されるか。さもなければ身を守るために、自ら闘争に参加するのがほとんどだった時代でした。
そして桓武帝自身も、身内に冷酷な処遇を与えます。
桓武帝の後継者は弟の早良(さわら)親王だったのですが、長岡京の造営責任者暗殺に関与したとしてこれを廃し、寺に幽閉しました。親王は食を絶って身の潔白を訴えましたが、容赦なく流罪に処され、配流の旅の途中で衰弱死…抗議の餓死を遂げたのです。
やがて桓武帝の周囲で不吉が起き始めます。
夫人の藤原旅子、生母の高野新笠(たかののにいがさ)が病死、皇后の藤原乙牟漏(おとむろ)の急死。さらに妃のひとりが亡くなり、むすこの安殿(あて)親王は重病になりました。日照りが続き、疫病が流行し、洪水が起こります。
桓武帝が恐れて神託を乞うと「これは早良親王のたたりである」と出ました。あわてて鎮魂の儀式をおこなっても怨霊を抑えることはできず、安殿の妃まで亡くなります。ついには、たたりと天災に荒廃した都を捨てて平安京へ移ることとなったのです。
桓武帝は「四神相応」の土地として京都を選んだといいます。風水の知識があったのですね。風水というと現在ではおまじない扱いですが、当時は大陸から渡ってきた新学問ですから、桓武帝は理知的な人だったのでしょう。
早良親王の悲運の原因には、藤原氏と他の貴族の抗争がからんでいたようですし、若い頃は僧侶だったため、つぶすべき奈良仏教勢力の象徴とみられた可能性もあります。けれども、生前の扱いの酷薄さ、そして怨霊への恐怖の深さをみれば、桓武帝はおそらくむすこに皇位を継がせたい私欲があったのだろう、という感じがします。
理知の人をも狂わせる「親子の情」。この言葉は特に現代では良い意味で使われますが、実は恐ろしいものを秘めているのだなと思います。
ところで、わたしは「怨霊のしわざ」というのは、ほとんど心身症だったと思います。
上流の貴族社会なんてものはかなり狭くて、身内での争いも多く、愚痴さえ言えないことも山盛りだったでしょう。辞めたくても他の職業はありません。たまる一方のストレスが心身の不調を引き起こすのは、千年前も今も変わらないはずです。
たまりたまったストレスを、彼らはどうしたか。
怨霊のせいにしてひきこもり、時には悪霊に取り憑かれたとして思いっきりブチ切れ、しまいには仏をダシに出家する(笑)。わたしにはそのように見えます。
一見、迷信深いように見えて、実は何もかも「自己」にくっつけて身動きできなくなるわたしたちより、上手にストレスとつきあっていたようにも思えるのです。
延暦13年のこの日(グレゴリオ暦794年11月22日)、時の帝・桓武天皇は山背国(やましろのくに)の北部に都を移します。世に言う「平安遷都」です。
延暦3年、桓武帝は七十年余りの歴史を持つ「平城京」=奈良の都を捨てます。
その背景には、皇統が数代続いた天武天皇系から天智天皇系に移行したこと、奈良仏教の勢力が大きくなりすぎたことなどがあったようです。
初め「長岡京」(現在の京都府南西部)を築きますが10年で放棄、平安京へとさらに遷都します。この早すぎる都の放棄の裏には、骨肉争い、怨霊と化すような、恐ろしい出来事があったといわれています。
桓武帝は光仁天皇の皇子ですが、生母が大陸から渡来した帰化人系だったため皇太子にはなれませんでした。しかし政争の果て、皇太子だった異母弟・他戸(おさべ)とその生母で皇后だった井上(いのかみ)内親王が廃され、皇位が転がりこんできました。
廃されたふたりはやがて不自然な死を遂げます。はじめから血塗られた即位でした。
蘇我入鹿暗殺=「乙巳(いっし)の変」から、「壬申の乱」を経て平城京遷都、女性である阿部内親王の立太子と即位、女帝の連続、政争による桓武帝の即位に至るまで、表(父系)では天智系と天武系が、裏(母系)では蘇我氏と藤原氏がせめぎあった時代だったと思います。
さらに桓武帝の治世となると、勝ち残った藤原氏の中で、内部抗争も始まります。
桓武帝即位にともない勢力を伸ばす帰化人たちの思惑もからんだかもしれません。ともあれ、非常に不安定な政局が続き、たくさんの犠牲者が出ています。
たとえば井上内親王は、大仏で有名な聖武帝のむすめですが、阿部内親王のライバルだった弟は不審死、妹とその子は身分剥奪のうえ流罪、自らもむすことともに庶人に落とされたうえ幽閉、あげくは、ふたりともおそらく暗殺されたものと思われます。
伊勢神宮の斎宮をつとめた高貴な姫君にしてこの悲惨な運命。
けれども、権力に近い人たちは実際にやろうとやるまいと、また本人が権力を望もうと望むまいと、呪詛・謀反などの罪を問われるか暗殺されるか。さもなければ身を守るために、自ら闘争に参加するのがほとんどだった時代でした。
そして桓武帝自身も、身内に冷酷な処遇を与えます。
桓武帝の後継者は弟の早良(さわら)親王だったのですが、長岡京の造営責任者暗殺に関与したとしてこれを廃し、寺に幽閉しました。親王は食を絶って身の潔白を訴えましたが、容赦なく流罪に処され、配流の旅の途中で衰弱死…抗議の餓死を遂げたのです。
やがて桓武帝の周囲で不吉が起き始めます。
夫人の藤原旅子、生母の高野新笠(たかののにいがさ)が病死、皇后の藤原乙牟漏(おとむろ)の急死。さらに妃のひとりが亡くなり、むすこの安殿(あて)親王は重病になりました。日照りが続き、疫病が流行し、洪水が起こります。
桓武帝が恐れて神託を乞うと「これは早良親王のたたりである」と出ました。あわてて鎮魂の儀式をおこなっても怨霊を抑えることはできず、安殿の妃まで亡くなります。ついには、たたりと天災に荒廃した都を捨てて平安京へ移ることとなったのです。
桓武帝は「四神相応」の土地として京都を選んだといいます。風水の知識があったのですね。風水というと現在ではおまじない扱いですが、当時は大陸から渡ってきた新学問ですから、桓武帝は理知的な人だったのでしょう。
早良親王の悲運の原因には、藤原氏と他の貴族の抗争がからんでいたようですし、若い頃は僧侶だったため、つぶすべき奈良仏教勢力の象徴とみられた可能性もあります。けれども、生前の扱いの酷薄さ、そして怨霊への恐怖の深さをみれば、桓武帝はおそらくむすこに皇位を継がせたい私欲があったのだろう、という感じがします。
理知の人をも狂わせる「親子の情」。この言葉は特に現代では良い意味で使われますが、実は恐ろしいものを秘めているのだなと思います。
ところで、わたしは「怨霊のしわざ」というのは、ほとんど心身症だったと思います。
上流の貴族社会なんてものはかなり狭くて、身内での争いも多く、愚痴さえ言えないことも山盛りだったでしょう。辞めたくても他の職業はありません。たまる一方のストレスが心身の不調を引き起こすのは、千年前も今も変わらないはずです。
たまりたまったストレスを、彼らはどうしたか。
怨霊のせいにしてひきこもり、時には悪霊に取り憑かれたとして思いっきりブチ切れ、しまいには仏をダシに出家する(笑)。わたしにはそのように見えます。
一見、迷信深いように見えて、実は何もかも「自己」にくっつけて身動きできなくなるわたしたちより、上手にストレスとつきあっていたようにも思えるのです。