週末から次の週にかけて埋まっていたスケジュールを、すべてキャンセルして、朝一番の新幹線に乗った。

よく晴れた木曜日。前日に少しだけ積もった東京の雪は、もう残ってはいなかった。



「母親が入院した」という連絡を受けたのは、今回が初めてではなかった。循環器の病にかかってから、入退院を繰り返していたし、体内の酸素の量を補うために、人工的な器具をいつも持ち歩いていた。
つい数週間まえの正月に会った時は、少し体調を崩してはいたものの、自宅で普通の生活を送っていた。


しかし、今回がいつもとは違う深刻な事態だという事を、父親の声からすぐに悟った。

「いつでも連絡をとれるようにしておいて下さい」

仕事中は、着信に気が付かない事がほとんどの、僕の携帯に残されていた留守電のメッセージは、今までにないほど重く沈んでいた。



新幹線は、午前中には浜松に着いた。

「どんな感じ?」と僕が訊くと、父親は少し疲れた顔で、「今回は厳しいなぁ」と言った。無理をして笑顔をつくっていたが、ときどき窓の向こうを眺めるフリをして、ハンカチを目にあてた。



街の中心部から、それほど離れてはいない場所にある病院は、とても大きく、立派な建物だった。

長い廊下を進み、許可された者しか通り抜けられない扉の奥にある『集中治療室』で、ようやく母親に会えた。

顔色は悪く、たくさんの機械に囲まれた状態で、ベットに横になっていた。

目を閉じて静かに眠っているようだったが、父親と僕が立っているのに気が付くと、少し驚いたように目を丸くした。



別室に通されて受けた、主治医からの宣告は、絶望的なものだった。

昨晩のヤマを超えて、現在は安定した状態にあるが、いつ呼吸が止まってもおかしくはない事。数ヶ月単位での延命も見込めるが、回復する可能性はゼロに近い事。

決定的ではない曖昧な言いまわしだったけれど、それは他でもない死亡宣告だった。



その日から、一人で病院に通う毎日が続いた。

朝早く起きてバスに乗り、一日じゅう病室の母親に付き添う平穏な毎日。

母親は意識もはっきりしていたし、少しだけれど会話もできた。

僕は、ベットの傍らで本などを読んで過ごし、ときどき「水が飲みたい」とか「部屋が暑い」と言う母親の頼みを聞いた。

一人で寝返りをうつ事すらできないぐらい、母親の体力は落ちていたが、言動は驚くほど日常的だった。

親戚や、仲の良かった友人が、最期の面会になるかもしれない、と駆けつけても、不思議そうな顔をしているだけだったし、家族には、いつもどおり憎まれ口を言ったりした。


そんな母親の振る舞いから、まだすぐ目の前に最期の日が迫っているわけではないのだ、という安堵感を抱いた。

このまま、何も変わらない毎日が続くと信じて疑わなかった。





それから5日後の真夜中、病院から緊急の連絡があった。

夜も病院に泊まりこんで付き添っていた父親の話では、急に脈拍が落ち、すぐに家族を呼ぶようにと、主治医から指示があったらしい。


タクシーですぐに向かった僕らが、病室に着いた時、母親はすでに呼吸をしていなかった。

手を握ると、まだ温かかったが、もう二度と動くことはなかった。




それから後は、ただ忙しく時間が過ぎていった。

悲しんでいる暇も無く、葬儀屋の鮮やかな段取りによって、母親は無言の帰宅をし、通夜と告別式の後、最期は骨壺におさめられた。


病院から、久しぶりに自宅に帰った母親は、寝顔のような穏やかな表情をしていたが、手を触れると凍るように冷たくて、いつまでも実感が沸かなかった僕に、死の現実を突きつけた。


最期に病室で過ごした数日間。

いま思うと、あんなに長く母親と一緒にいた時間は、この10年以上、一度も無かった。

いつも心配をかけてばかりだった。元気なうちに、もっと親孝行するべきだった。

後悔は拭いきれず、母親はどんな思いで59年の人生に終わりを告げたのだろうと考えたが、すべてが儚く、幻のようにぼんやりとしていて、僕はただ無気力に立ち尽くすしかなかった。






約10日ぶりに東京に戻ると、雪が少し残っていた。

前日に大雪が降ったと、ニュースで告げていた映像を思いだした。



もう半分溶けている雪の塊は、きっと数時間後には消えてしまうに違いない。

後悔と哀しみの塊も、同じようにいつか消えるんだろうかと、この数日間の出来事を遠い昔のことのように感じながら、歩いた。