心あたたまるいい話『名刺一枚』
「デザインとアートで社会をハッピーにする」、コーズマーケターてるさんです。
いい文章にできるだけ多くふれたいと思い、こんな本を読みました。
- 青春 (日本の名随筆)/著者不明
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選者となる作家が自身のテーマでさまざまな作家の名随筆をセレクトしたもので、これは椎名誠が「青春」をテーマに選んでいます。
その中でルポライターの沢木耕太郎の『名刺一枚』というエッセイに感動したので、少し長いですが、全文を以下に掲載します。
名刺一枚 沢木耕太郎
黒田征太郎さんと初めて会ったのは、私が二十二歳の時だった。黒田さんも三十になったばかりの頃だったと思う。あらためてその当時のことを思い出そうとすると複雑な感情が沸き起こってくる。あれから十年が過ぎ、自分が当時の黒田さんの年齢を越えてしまったということが、なぜだか信じられないような気がするのだ。そして、あの頃の黒田さんが私のような若僧に示してくれた真摯な対応を、果たして、果たしていまの自分が現代の「若僧」たちに対してすることができているかどうかを考えると、いささか恥じ入らざるをえなくなる。十年前も、そしていまも、黒田さんには他人に対する過剰なほどのサービス精神がある。それは黒田さんに独特な邂逅観から生み出されるもので、単にサービス精神といって片付けてしまうのは正しくないが、いずれにしてもその持続には凄まじいエネルギーが必要なことだけは間違いない。私にもそのエネルギーが噴き出すこともあるのだが、すぐに疲れてしまい間歇的なもので終わってしまう。持続しない以上、それは気まぐれというにすぎない。
十年前、大学を卒業したものの、就職することを放棄してしまった私は、アルバイトをしてなにがしかの金を稼ぐという生活を始めていた。喰うには困らなかったが、定まった仕事のない生活は退屈だった。焦る気持ちはなかったが、自分のすべきことが見つからないという苛立ちはあったと思う。そんな折に、ある雑誌社からルポルタージュを書いてみないかという申し出を受けた。私の状態を見かねた大学時代の教師が、密かに口をきいてくれたらしいのだ。編集長からテーマを与えられ、よしやってみようと勇み立ったのはいいのだが、ルポルタージュを書くということにまったく経験のなかった私は、取材の第一日目でつまずいてしまった。卒業する際に破棄し忘れた学生証でも遣わない限り、私には自らを証するなにものも持っていないことに気がついたのだ。せめて名刺でも作ろうと思ったが、どういったものを作ればいいのか見当もつかない。取材がしやすく、それでいて少しは格好のいいものが欲しいがどうしたらいいだろう……。私が黒田さんと出会ったのは、ちょうどそのような時だった。
ある日、偶然、放送局のロビーで言葉をかわすことのできた黒田さんに、あつかましくも私は名刺のデザインの相談を持ちかけたのだ。不快そうな顔もせず熱心に話を聞いてくれた黒田さんは、しばらく考えてからこういった。
「それ、ぼくに作らせてもらえますか?」
確かに、初対面で、しかもすでに高名だったイラストレーターに、たかが身分証明のための名刺について相談をもちかけた私に甘えがなかったとは言い切れない。しかし、それに対する答えが、「こうしなさい」というのでもなく、「作りましょうか」でもなく、「作らせてもらえましょうか」というのであった時には、さすがに驚いた。一瞬、私はその過剰なほどの好意に戸惑ったが、すぐにそれは黒田さんが自分を認めてくれたのだと一人合点した。もちろん、それが浅薄な自惚れにすぎなかったことは、黒田さんと何度となく接するうちに理解できるようになった。そのような対応の仕方は、私にかぎってのものではなく、黒田さんが自らに課した、いささかしんどいルールのようなものからくるのだということが、ようやく理解できるようになったのだ。
しばらくして、名刺ができたという連絡を受けた。その頃まだ青山にあったK2の事務所に行くと、刷り上ったばかりの五百枚の名刺を渡された。実際に作ってくれたのは黒田さんではなく、にこにこしながら手渡してくれた長友啓典さんであるかもしれず、事務所の他の人の手になるものかもしれなかった。しかし、いずれにしても、K2製作のその名刺は実に素晴らしいものだった。白い艶やかな紙に、黒く美しい文字がプリントされている。名前の横に小さくルポライターとあり、あとは住所と電話番号がさりげなく記されているだけという単純なものだったが、私にはまるで輝いているように映った。簡潔で清々しく、それでいてどこかにしなやかさを秘めている。こんな素晴らしい名刺は見たことがないと思った。実際、それは私ひとりの勝手な思い込みではなかったらしく、名刺を交換するたびにいい名刺ですねといわれもしたし、また私の友人たちのあいだで、私のものと寸分かわらぬデザインの名刺を作ることが流行したほどだった。
私はその名刺を持ったことが嬉しかった。その名刺を出し、人と会うということが愉しくて仕方がなかった。私は嬉々としてルポライターとしての仕事に励んだ。励んだ、と思う。そのようにして何年かが過ぎ、しかし気がついてみると、私はなかば無意識のうちに、自分をその名刺に似せようとしていた。その簡潔で清々しい雰囲気の名刺を出しつづけているうちに、いつかそれを身にまとおうとしていたらしいのだ。それに気がついた時、私は愕然とした。たかが名刺に自分が支配されているように感じられたからだ。
もちろん、じぶんにないものを完璧に身にまとえると考えるのは錯覚にすぎない。まとったかに見えても、いずれボロがでる。事実、いまの私にその衣装は窮屈すぎる。しかし、たとえボロがでようとも、窮屈でも、私がその名刺の持っている雰囲気に自らを同一化しようとしたという事実は残る。とすれば、その素晴らしい「名刺」と共に、ルポライターとしての「私」もまた、K2の、これはあまりできのよくない作品の一部ということになるかもしれない。
黒田征太郎さんの人柄がにじみ出たすごくいい話ですよね。
「BIRD IN FLIGHT」/黒田征太郎
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