私の母のことを…


私の母は、強い人でした。
最後の最期まで ほとんど弱音を吐かない人で。

私の母は、私の父とは再婚です。
父は初婚で、母は父より3つ歳上女房。

母の最初の結婚について知ったのは、私が最初の離婚をした時だったか…

母の初婚の相手は、宗教家だったそうで 朝も早くから色々な縛りごとがあったそうです。
凄く我慢していたと聞きました。
弱音は吐かなかったと。でも見るに見兼ねて母の父が連れ戻したと聞いてます。
母には、父しか居ないんです。
母を産んで、数日後
産後が悪く亡くなりました。年代も年代
栄養も無かった時代です。

母は元々9人兄弟でしたが、栄養不足で亡くなった兄弟も居ます。
生き残った5人兄弟の末っ子で、1番上のお姉さんとは15も離れてて1番上のお姉さんが育ての母です。

母はとても器用な人でした。
何でも覚えて、何でも身に付けてしまう そんな人でした。
どんな状況でも、前しか見ない  前を向いて進む
そんな人でした。

私には妹が居ます。
私達 姉妹は、母から色々な事を学びました。
特に「自分の始末は自分でつける」は私の中で
最も重要な母からの教えでありました。
だから、私が悪さして 御用になった時も尻拭いはしてくれず、警察に迎えにも来てくれず どんな時も自分で と学びました。
その縛りもあって、私は精神的な病になった時 
とにかく自分で何とかしなきゃ が抜けず もがいてしまったけど、その縛りを解いてくれたのも やはり母でした。
でも、それまでは自分の行動が全ての結末を良い形でも悪い形でも招くことを痛感し、どうすればいいのかも学ぶ事が出来ました。
結婚生活以外の事に関しては失敗から学び修正することが出来 、人にも出来るだけ迷惑は掛けない様に配慮も覚え調和も出来ていました。

人生の先輩であり、お手本であった母でした。

でも良く考えたら、病弱だったように思います。

まだ私達が幼い頃から、通院歴があり 何度も入退院を繰り返していました。
父は家庭的な事は全く出来ない人でしたから、小学生の頃から私は台所に立って母から色々学びました。
母が入院していた間は、小学生の私が妹に朝ごはんを食べさせ洗濯物を干してから学校へ。
そんなこともよくありました。
幼い妹が母に会いたがって言うことをきかず、仕方無く私が妹を連れてバスに乗り電車に乗って病院に会いに行く事もありました。
だいたい1カ月くらいは病院に居たのですが、その間 仕事が忙しく朝は早く帰宅の遅い父と妹と過ごしました。

子供だからとかそういうことの無かった人でした。

母は、ちゃんとした理由が言えてその理由を聞いた人が納得出来るなら 何でもすればいいと。

母は私が、誰かと何をする時も どんな事が原因でどんな理由があるのか説明させました。
小学生の頃、喧嘩するのに1度帰宅して母の許可を得て喧嘩に行った事も。
今思えば変わった母だったのかもしれませんが、母が納得出来る理由で喧嘩した時は学校から呼び出されても私をちゃんと擁護してくれました。
ある意味 徹底してました。

やりたい事が見つかれば、やり通すならと全面的に応援、サポートしてくれました。
だから私はインターハイまで行く事が出来たし
妹はオールジャパンでやり抜くことが出来ました。
決して裕福では無かったと思います。
部活に掛かる費用も遠征費など半端無かったし。でも母は  お金がない  とは決して口にせず、内職してまでも
私達がやりたいと言った事はさせてくれました。

何かでつられたこと…
「◯◯すれば、ご褒美に◯◯あげる」とかは、全く無かった。
「やらなくても良いよ。困るのはお母さんじゃなくて自分だから。」
よく言われたセリフです。
コレ言われると、何にも言い返せないし 鵜呑みにしてやらないでいると確かに自分が困りました。
何でも自分でやる事を上手く誘導されて、苦にならずやってこれました。

自分が就職して、やっと親の有り難みが分かり
親孝行しなきゃ と思うように。
初任給で色々プレゼントしました。
親からの束縛なんて無かったのに、何だか自立したくて家を出て 母には心配を掛けました。
父と一緒に働く母、いつも父と一緒で家事をこなすのも自分の時間を保つのも大変だったろうな

そんな母が大病になったのは、私が初めての離婚をして暫くしてから。
それまでも持病はありましたが、いつものことになっていました。
胃潰瘍や十二指腸潰瘍などの持病が悪化してバケツ一杯 吐血しても入院はしましたが手術までは無かったのに、その病名を聞いた時は家族はどうしていいのかわからなくなりました。

病名は、「肺癌」でした。

幸いにも、摘出手術をすれば大丈夫との説明で 私としては術後は父との仕事に戻るのは困難だろうから働き詰めだった母がやっと仕事から解放されると思っていました。

でも私の心配をよそに母は、仕事に戻り 前と変わらず 朝も早くから現場仕事をしていました。
定期的に通院し、定期的に検査も受けていました。
肺癌との因果関係は、定かではありませんが 肺癌がおとなしくなってからは

間質性肺炎

という病に見舞われました。

この病気は治療法が無く、手術も出来ず、3年生存率が限りなくゼロに近い病気です。
乾いた咳が出ます。痰がきれません。
そして何より肺がどんどん石灰化していきます。
だから肺の本来持っているポンプ活動が出来なくなっていきます。

緩やかな悪化だった様に思います。
病気が分かっても、仕事を続けていましたから。

でも、色んな病気を併発していきました。
ずっと働き詰めだったから、身体が悲鳴をあげだしたのかもしれません。

肺が石灰化していくにつれ、自発呼吸をすることがだんだん難しくなって 酸素ボンベを使う様に。

使い始めの頃は、供給量も少なくて済みましたが
1つ病気を併発する毎に供給量が増えていく。
つまりは増悪、悪化していきました。

何度入院しただろう。

でも、母はいつも人前では前向きで 呼吸のリハビリにも自発的に参加して家に帰るを実現しました。

仕事に出れなくなって、家に居られるようになって  好きだった庭いじりや猫とゆっくり過ごすなど自分の為の時間を過ごして欲しかった。
けど現実は、具合は悪い時が続いていたんだろうなと思います。
余り叶いませんでした。

辛い、苦しいを言わない人でした。

母の介護とまではいかなかったけど、私は通いで日中 母と過ごしました。
買い物に付き合ったり、何かを手伝うとか。

でもやはり悪化は見えないところで進んでいて 朝父が出掛けてから私が行くまでの たった2時間余りの間に容体が急変して私が着いた時には倒れているということもありました。

たった2時間。朝は平気だったのに1時間もしない内におかしくなって、電話も出来なかったと。
倒れている母を見つけて慌てた私は、救急車を呼んで父に連絡してバタバタと救急車に乗り込む。
こんな事は続けられないと、そう感じて 私は実家に戻る決断をしました。

退院して安静にしているか と思っても行動的な母は よほど具合が悪くなければそんなことは無くて
動いていないと死んでしまう  かのように動いていました。

全面的に私がちゃんとサポート出来ていたら、今が違っていたかもしれません。
でも、実家に戻った事で私には色んな意味での安心感があったのと元旦那とのトラブルが諸々あって自分が普通に過ごす事が難しくなっていきました。
部屋に引きこもり、食事や入浴もままならず 母のお世話どころか逆にお世話になり 自分を何とかしなきゃならない状況。
そんな中で、母の通院日だけは何とか付き添う
そんな日々でした。

母の具合が悪くなるのと同じように自分が病んでいってしまって、母の出すヘルプ信号を受け止めることが出来ずにいました。

母は大丈夫

勝手にそう思い込んでいたんです。

母は自分の気持ちとは裏腹に、母の身体はどんどん弱っていったと思います。
夏が終わり、秋口になると 体調を崩して本格的な冬が来る前は 1度入院する等 気候にも左右されていきました。

母の入院中は、毎日 病院に行って着替えや身の回りのこと等をお世話出来るのに 母が退院して帰って来ると  それだけで何だか安心してしまって また母に頼る
そんな繰り返しでした。

でもある日、母が
もう出来ない
って言いました。

それまでは言わないで、我慢していたんだと思います。
でも限界を感じたんだと思います。

その日以来、家事をしなくなりました。
出来なくなったんだと思います。
だけど、父のお弁当の支度だけは母が朝用意してくれました。
それは多分 不眠の私を思ってのことだったと思います。
朝方まで眠れずに居たので。

もうその頃の母の酸素の供給量はかなり上がっていて、外出時にはボンベの替えが必要で外出時間にも制限が出る程でした。
そこまで切迫していても、私自身の中で感情の管理が出来なくなっていて 頼らなければ良かったのに頼るところも無く 元旦那に話す。
でも元旦那は元旦那で私が居ないから  今迄1人で身の回りのことをして来なかったから、思う様にいかず色々な葛藤の中で  浴びる様に酒を呑み 私の話を聞いているフリをしながら自分の言いたい事を延々とぶちまける。
そんな話を聞いている余裕のない私は、元旦那との連絡を控えるようになる。
でも元旦那は募る不満から執拗に連絡して来る様になり、夜中も構わず 酔って不満をぶちまける様になっていきました。
酔っているから、同じ事を繰り返して壊れたレコードみたいに。

私は心身共に、どんどん追いやられていって どうにもならない 抜けられない蟻地獄にはまっていき

ある日


処方薬の睡眠薬を過剰摂取し意識不明になりました

日曜日はいつも、父が母につきっきりで居てくれるので私は起きて行きもせず 部屋で過ごす事が多々あったので、起きて行かずとも何とも思わなかったそうです。
しかし、月曜日の昼近くになっても起きて来ない。
母が下から何度呼び掛けても反応がない。
携帯をならしても出ない。

心配した母は、酸素のチューブを伸ばし 息を切らしながら2階へ上がって様子を見に来たそうです。
階段を上がる事は、母にとっては 大変な事なのに。
そしたら、奥の部屋で倒れている私を見つけたと。

これは全て後から聞いた話で、私の中の記憶では
土曜日の夜に家事を終えて2階へ上がって友人と電話で話してた
そこまで。
母が見た光景は、カーテンを締め切り 真っ白な顔で倒れている私の周りには猫たちがウロウロしていた と。

私が気付いた時には、数日が経っていました。
私は状況を把握出来ずに居ました。
何処だか分からず、体も動かない、色んな管が繋がってる。声も出ない。
顔を覗き込む看護士さん、担当医に説明されるも まだ意識がもうろうとしていて判断出来ずに居ました。
もう少し遅かったら、取り返しのつかない事になっていたそうです。
真冬だったので、1日以上パジャマ姿で布団に入っていた訳でもなかったので肺炎も起こしていたそうです。
誤嚥性肺炎。誤嚥性肺炎になったのは大量の薬のせい。

意識がある時に父が来て、妹も来て 母は来れないと聞きました。
母にどんな思いをさせてしまったのかを思うと胸が張り裂けそうになり、今も涙がこぼれます。
その当時は、別居はしていたものの まだ一応夫婦だったので父が元旦那に来る様に言ったそうで 数日後に現れました。
差し入れも有りましたが、後になって 差し入れ分と駐車場の全部のレシートを出され請求されました。

私は誰にも責められる事なく、でもそれだけに自分が何をしてしまったのかと自問自答の入院生活でした。
私が当時の様子を聞かされるのは、だいぶ後のことでしたから。

私がやってしまった事が母に与えた影響は大きく、取り返しのつかない事です。
後悔してもしきれない事。

私が退院して半月後、母の容体が急変し緊急で病院に掛かりました。
いつもお世話になっている病院まで行けそうにない。
ただ母が救急車は嫌だと言ったので 問い合わせをして救急対応して貰える近場の病院を案内して貰い連れて行きました。
呼吸器内科の医師が居らず、こちらが持病の間質性肺炎の事や、酸素の事やお薬の事など事細かに説明しているにも関わらず 診て下さった医師は違う診断をし、対処をする…と。
毎月 母と通院し主治医に色々と教えて貰って来た私は不安が募り、母を処置室に残し母の主治医に連絡をしました。
こういう状態になって、緊急に病院に掛かって こういう説明をしたけど こうなった、と。
私の不安は当たっていた様で、主治医は
これから、ウチの病院の救急車を手配して そこまで迎えに行かせるから
と、手配してくれて 対応してくれた医師にも話をしてくれて救急車が着くまでに処置よりいくつか検査をして貰える様に穏便に頼んでくれました。
母の容体も 一時より安定していたので、病院の移動にも耐えることが出来たし 何より誤診による無駄な治療を受けずに済んで良かった。
主治医に感謝です。
母が病室に落ち着けたのは、夜になってしまいましたが 家族としては いつもの主治医に診て貰えるのが1番です。
主治医も外来も終わり、諸々の仕事も終わっていたはずでしたが到着を待っていて下さり母のもとに顔を出して、母が落ち着けるように話をして下さいました。

容体が安定していたので、またしばらく入院したら 普通に帰れると思っていましたが違いました。
レントゲンの結果は、思っていたよりも急悪していて 連れて帰れる状態にはならない
と言われました。
癌の告知の時からそうなんですが、母は全て知りたいと。
だから、この状況も一緒に聞いたんです。
暫く黙っていました。
家族より本人が1番ショックだったと思います。
でも薄々分かっていたのかもしれません。
もう家に帰ることが出来ないと言われて、どんなにショックだったか。


病院でこのまま過ごすのは、どうしても嫌だ
と言うので、私からも主治医に相談して今後の
治療方針について何度も何度も検討して貰いました。
母に残された選択肢はほぼ無かったけど、対処療法でいくしかないと。
血中酸素濃度の数値の上昇を目標に掲げ、母は頑張りました。
自己呼吸が困難なので、寝ても覚めても酸素吸入していないと死んでしまいます。
母の家に帰るという切なる思いが、家族のみならず主治医も婦長も 周りの皆さんを突き動かし、息が切れて出来ないはずの呼吸のリハビリにも耐えて退院の目処が立ちました。
母はうかれてました
ウキウキでした。

そんな母を家に連れて帰るには、まだまだやる事がありました。

主治医から
お母さんは、もう通院に耐えられないと思うから在宅医療に切り替えよう
と言われ、今までも長い待ち時間の間に具合が悪くなりベッドで寝かせてもらう事もあったので、それで事が済むならそれに越したことはないと
その時は思いました。
後々になって考えてみたら、もう治療法が無いから在宅医療でも間に合うって事だったように思います。
でもその時は気付きませんでした。
ただ母を連れて帰る事だけしか考えられなかった。
主治医の一声で婦長が動き、婦長から院内の相談室に話がいって相談員がケアマネジャーを探してくれて、ケアマネジャーが在宅医療機関、在宅看護、酸素の会社、介護ベッド 全部手配してくれました。
ある夜、院内の会議室にそれぞれの会社の人が集まって、私も同席して顔合わせ、打ち合わせをしました。
そこからは早かった。

介護ベッドが来る➡︎今迄使ってたベッドを処分して一回り大きなスペースを確保。
酸素の機械交換➡︎今迄の機械では供給量不足の為大きな機械、それも2台に増やす事になり設置場所の確保。ホースも太くなり 2台同時に動かすレクチャーを受ける。 

ベッド設置後、ベッド周りに普段使う物をひとまとめにするスペースを作って、ベッドのリクライニング具合を父が試しに寝て確認。
介護保険のお陰で、病院のベッドより数段良いベッドを入れて貰ってマットレスも床擦れ防止のものにして貰いました。寝てみて良くなければ、いくらでも変えてくれるって。
1日中 区役所やら保健所やらまわって色々聞いて手続きした甲斐があった。
主治医の診断書のお陰で、警察発行の駐車違反にならない「駐車禁止除外指定車」という標章も発行して貰えたし。
母は母で 投薬のせいで糖尿病を発症したのでインスリン注射やら測定やらの仕方を病院で学び、チョット待ってって私が言ってるのに待てず 退院。

お誕生日の前日に家に戻って来れました。
糖尿病の事も把握していたので、この年の母のお誕生日ケーキは 糖尿病患者用のものを手配しました。
もっと味気ないものかと思っていましたが、とても美味しく頂きました。
家に戻って来れたのと、お誕生日の両方のお祝いで訪問看護の担当の方が記念に写真を撮ってくれました。

母が戻って来れて、私は食事面の管理を張り切ってやりましたが 具合が良くなるにつれ 私が作るカロリー計算した食べ物に飽きてきた母は自分が食べたいモノを食べると言い出し、夕飯以外は自分でその時食べたいモノを食べるように。
頑張ってた私は空回りして、母のためにやってるのにと恩着せがましくなってました。
そんなこと母は言われたくなかったんですよね。
そりゃそうだ。
色んな事をやらなきゃいけない  としか思っていなかった私は自分で自分を追いやってて。
母を思ってるんだけど、恩着せがましくされたくない母と私はすれ違ってしまいました。
押し付けがましい私が嫌だったのに気付かなくて空回りして私1人イライラして。
私はまたドツボにはまっていきました。

元旦那とは、 母が入院した日に離婚しました。
携帯も変えて、向こうから直接私に連絡出来ないようにしました。
仕事では相変わらず絡んでいましたが、私は現場に出なくなってたので仕事先で会う事も無く、父に任せていたので比較的スルー出来ていました。

だから本当に、どうしてまたあんな事になったのか自分でも分からない。

母が退院して1カ月半が過ぎようとする頃に私は再び過剰摂取で病院に運ばれました。
今度も同じように睡眠薬の過剰摂取で、やはり記憶に無いけど 今度は家族宛に遺書を書いていたそうです。

たった数ヶ月のうちに、2度も同じことを繰り返してしまい両親、妹を苦しめてしまいました。
また発見者は母でした。母は妹に
私よりお姉ちゃんが先に逝くなんて許さない❗️❗️
と泣いて言ったそうです。

母も自分の身体が思うようにいかない事で、精神的に参ってたのに追い打ちをかけるような私の行動で母の寿命を私が縮めたんです。
1度目で、あんなに後悔したのに またやるだなんて

2度目は時期も春先だったので、前ほど酷い肺炎に掛からず前より何日か早く退院出来ました。
父は、私の退院に付き添ってくれて家に帰る前に私の主治医に連絡させて一緒に診察に行くと。
初めて診察に同席するのが こんな状況になってしまいましたが、コレが無ければ同席する事は無かったと思います。
私の家族は、私が精神的な病になった事を良くは思っていなかったし 理解出来ないから。
私は私で自分に向き合っていくしかないんです。

なのに、家族を巻き込み 家族の中心的な存在の母を奪ったんです。

私が退院したのが4月半ば。
その後は、痩せ細った私に何とか食べさせようと両親が。
なんか食べなさい  と母が口煩く言い、父が仕事帰りにゼリーやらデザートやら沢山買い込んで来る。
母を介護しなきゃいけないのに、私が世話を掛けてしまって…
ゴールデンウィークは母のボンベの都合もあって遠出は出来ないけど気分転換を兼ねて出掛けようということになり、出掛けたくなかった私も強制的に連れ出されて 車椅子の母と出掛けました。

母の残された時間が分かっていたなら、1秒たりとも無駄にしないで もっと母の為に何でも出来た
だろうと思うけど、そんな事 思わなかったから
気付こうとさえしていなかったから 未だに後悔してる。

2度目の事があって、私は母に恩着せがましくしないように  母がしたいと思った事が出来る様に
私は私で無理しない程度、お互いがお互いを疎ましく思わない程度を出来るだけ守ろうとしました。
相変わらず、私は引きこもっていたけれど 引きこもりの範囲が「部屋」から「家の中」に変わって 部屋から出る事は出来る様になりました。
前もって  いついつにどこどこに行きたい  とさえ言って貰えたら 対応出来事もありました。
でもお買い物が出来ないのは変わらなくて、母も車椅子でのお買い物になるので 揃って食品などのお買い物に出れるのは父の居る日曜日だけ。
1週間分を買い込んで来るのですが、なんとなく不足しそうな時は必殺ネットスーパー
便利な世の中になり、画面上で母と  いる、いらない が出来  早ければ当日、遅くとも翌日には配達してくれるので重宝しました。
母が自力で行動出来ていた内は、私の引きこもりと噛み合うことは無かったけれど 母が自力では外出出来なくなり 私の引きこもりと噛み合って ある意味 楽しい時間が過ごせたわけです。

そうして8月になり、今年は田舎にお墓参りに行くのは無理だろうと父と私が言っているのに母が
最後になると思うから、どうしても行く
と言い張ってきかなかったので、希望を叶える為に色々準備しました。
先ず、ボンベの確保から。
車両用の酸素の機械もあるにはあるけど、母が必要とする酸素の供給量を確保することが出来ないので とにかく大量のボンベを確保しなくてはならないのでボンベの会社に連絡して担当の方と打ち合わせ。
母だけに貸し出している訳では無く、他の患者さんもお盆休みになってしまうので皆さんストック用にボンベを頼むので、その兼ね合いもあって母が必要とする本数が確保出来るかどうか。
またお盆休みということで、車で出掛ける人も多く帰省ラッシュにも絡む。
泊まりは動物がいることから無理なので日帰りで往復だけでは無く滞在時間も計算してボンベの本数を割出さないとならなくて。
在宅医療の担当医に、田舎にお墓参りに行くと母が言ったら 先生 固まってました。
先生からは、とにかく我慢しない事。なんとなくでもおかしいと感じたら救急に掛かる事。約束ね
と言われていました。
なので先生の回診の予定を早めて、日帰りお墓参りの翌々日にして貰いました。
この頃の母は 我儘というより、今しか出来ないかもしれないから我慢しないになってました。
父も私も、半分は脅されてたかも…
でも動けない日もあったので、行きたいとかそういう前向きな事は叶えてあげたかったし。
私は、母のお墓参りに行くことを考えれば考える程 気にかかり、万全など無いのに 少しでも心配事を減らしたくて右往左往しました。
とりあえずボンベを計算して24時間分どうにか確保しました。
そんな本数を一般車両に積み込むには ボンベのマークステッカーと高圧ガスのステッカーを車両の見えるところに掲示しなくてはならないと教えて貰い 買う暇が無くてネット検索で見つけた画像を引き伸ばして印刷してパウチして車に貼り付けました。
車椅子の準備も、長時間座る座席も辛く無い様に、眠ることも出来るように工夫してトイレ以外にパーキングに寄らなくても良い様にと色々買い込んだりして あれもこれもとやってもやってもキリが無くなってしまってました。
当日は、行きは案の定 混んでしまいましたが何度かトイレ休憩でパーキングに寄り、駐車案内の人に頼んで車椅子スペースに停めさせて貰いトイレも多目的トイレ。
母が使い始めるまで、気にしていなかったけど多目的というだけあって多目的なんだなと。
だからか、色んな貼り紙してあるし 利用時間も待ち時間も長い。
貼り紙の中には「染髪禁止」とか。

パーキングでも同様で、早めに寄ったから良かったけど 母の付き添いを最初は私が。
その間 父がトイレを済ませ、父と交代して私も用を済ませ もう母がトイレに入っているだろうと思ったけど まだだったり。
混んでるから仕方ないね、とお互いに慌てない様に。
無事 田舎に到着して お墓参りの前にお寺さんに寄り 住職はお盆という事もありお留守。代わりに奥さんが出てきて下さって 1年の間に変わり果てた母を見て驚いていました。母は車椅子から離れなければ呼吸も落ち着いていられるけど、乗り降りだけでも息が苦しくなってしまってたから。
1年前は、名物の蓮の花畑を見に行くことが出来たけど花畑に行く道は車椅子では通れなくて今回は断念。お墓まで行く道も車椅子では行かれない。距離は無いけど、母には辛くお墓に着いて座り込み呼吸を整えるのがやっと。
座らせて、息を整えて御線香をあげて手を合わせる。 また来た道を戻らないといけなくて。
普通の人なら歩いて1分も掛からない距離だけど母には全力疾走並み。
夏の暑さもあって、車に戻った時には 母は汗だくでした。
疲れただろうからと父が帰路につこうとすると
スーパーに寄ると母。
地元のスーパーにしか売ってない物でいつも買って帰る物は確かにあるけど。
1軒目で欲しい物が見つからず、諦めるかと思ったら携帯で同じスーパー探してよと諦める気配は無く足を伸ばし、見つけました。
売り場に出てた分全部を買い占めて来ました
帰路は、まだお盆休みが始まったばかりということでスイスイと。
あのパーキングに寄って、アレを買って あっちのパーキングでご飯食べて それから あそこのパーキングでアレも買って帰ると せっかく来たからあれもこれもといった感じ。ボンベ用意しといて良かった。
お医者さんが心配した出来事は幸いにも起こらず無事に帰って来れたけれど、その後数日 母は寝込んでしまいました。
でも、行けた事に満足出来た様でした。

お盆が過ぎて、肩の荷が降りたかのように 緩やかなような急激なような 分からない時が過ぎて行きました。

酸素を吸っているはずなのに
苦しい、息が出来ない
と呼吸困難になる事も増えて、ベッドからトイレへ行く ほんの数歩の距離でも息が切れてしまって
思うように身体が動かずにイライラすることも。

少し前から、訪問看護や訪問医療の席に同席出来なくなりました。
それは、母が嫌がったというか 私が同席しようとすると いいから と言って部屋を閉めるようになったから。
精神的に辛い事などを打ち明けていたのかもしれません。
だから、同席しませんでした。

8月の終わり、食後 いつものように一緒にテレビを見て、そろそろ と母が立ち上がり動く体制に。
でも数歩動くだけで また呼吸困難になりました。
それなのに私は、おおごとに捉えないで 少しすれば落ち着くと思っていました。
翌日仕事だった父は先に休んでいましたが、母の息遣いに気付き 起きて来て母をベッドに連れて行ったので、私はそれで大丈夫だと思い込み私も自室に戻りました。
ここ最近の「いつものこと」と思っていました。
翌日、いつものように朝と昼の間の午前中に降りて行くと母が呼んだのにと。
大きな声を出す事が出来なくなった母の為に、ベッドサイドとトイレに呼び出しボタンを設置し その親機は私の自室に置いていました。
その朝は、丁度 電池交換ランプ が点滅しだしたので 交換しようと持って降りたところでした。
「呼んだのに」と私の手にある親機を指差す母。
何❓具合悪いの❓と聞くと、さっきねって。
さっきはトイレで具合が悪くなって、ボタンを押したけど私の反応が無いから仕方無くトイレでやり過ごしたらしい。
血中酸素濃度を測る、指にはめる機械を手放さず、随時計測していたみたい。
タイミング悪く、電池交換になるなんて。
その日は、これから訪問看護が来る日だったので
とりあえず横にならせて待ってたけど 待つ間にも呼吸困難になって私の中のどこかで もうダメかも って気になった。
訪問看護が来て、血中酸素濃度や血圧を測って母から様子を聞いて 私の元へ。
お母さんの様子が良くないから、先生に連絡とりますね
って言われて。先生にすぐ連絡してくれて、先生も診に来てくれることに。
先生が駆け付けてくれて、母の様子を診て母に
お母さんね、この血中酸素濃度、この数字。
この数値だと もう緊急搬送しないといけないの。
嫌❓病院行きたくない❓ んー、分かるんだけど、お家に居ても苦しいのは良くならないんだよ。病院行きたくないけど、行こうね。
と 行きたがらない母をなだめてくれた。先生の話をドアのところで聞いてた私にも先生が
これから救急車呼びます。◯◯病院(元々の病院)に搬送して貰える様に伝えるし、病院にも私から連絡入れておきますから。
と言って下さって、訪問看護の方も残ってて下さり動揺してる私に大丈夫だからって声をかけて下さった。
そうだね、そうだよね。前は1人で救急車呼んでたんだもん、大丈夫。
救急車が来るまで、先生も看護の方も皆さん一緒に居て下さって 救急隊員に先生から現状を伝達、病院は◯◯病院と話して貰いました。
救急隊員の方からは◯◯病院に向かいますが、途中で患者さんの容体が変わった場合は近い救急病院に変更しますと説明を受けて母を運び込んで貰い、残ってて下さった訪問看護の方、先生と共に家を出て戸締りをして救急車に乗り込み半年ぶりの病院へ。
救急車の中では、母も多少 落ち着いて話をすることも出来ました。
家族への連絡は、病院に着いてから。
母は他へ寄る事無く、無事に目的の病院に到着しました。
母は診察室、私は待合室で看護師さんに色々報告。◯◯病院での主治医は誰だとか今に至るまでの事とか。
母が処置を受けて、病室に運ばれる迄 長く掛るので この間に父と妹に連絡をしました。