18日目/42・人生を共に経験する | 空。雲。海。

18日目/42・人生を共に経験する

 

18日目  キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。 コロサイ3.15より

>人生は共に分かち合うためにあります。

意識していなかった、本当に。たしかに教会=共同体。

>聖書は経験を分かち合うことを「交わり」と呼んでいます。

最近は交わり(フェローシップ)の意味は「社交、食事、お楽しみ程度」の意味でしかない。

霊的でないときもある。

特に誰かが「未信者は~~」と言うときに、違和感。未信者という言葉でディスっているように聞こえる。

そのあと、的確に、信者との違いを言えば、違和感はないのだろうけど。

キリストを信じた者。つまり信者は、ただ永遠に罪を赦された罪人

(いや、心の底から感謝だし、素晴らしいことなんだけども)

 

>多すぎるのは好ましくない。グループが十人以上になると、物静かな何も発言しなくなる人が出てきます。

>神は教会のスモールグループについて驚くべき約束をしてくださいます。

20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」 マタイ18.20

 

アーメン。ということは、やっぱり一人は教会ではないびっくりスモールグループはすごくわかる、今7人でも多いと感じる。(黙る人が出てる)4,5人?もしくはリーダーシップある人がいれば10人以下でもいいかも。

 

>表面的な交わりに終始している多くのスモールグループや日曜学校があるからです。

これは自分が他の教会を責めてはいけないけど(マタイ7.1)反面教師にしたい。

 

>本物の交わりには偽りのない分かち合いがある。腹を割って話せる分かち合い。

失敗を告白、疑いを明らかにし、不安を認め、弱さを自覚し、助けと祈りの支援を求めることが必要。

これとは反対の教会もある。どこか装っているような、駆け引きをしているような、演じているような、雰囲気。

礼儀正しいのですが、会話に奥行きがありません。

人々は仮面をつけ、本当の自分を隠し、人生はすべてバラ色グラサンのように振舞っています。

 

まさに昨日、ピンポイントで(自分が成長するためには、イエス様に近づくためにはと感じ)

導かれて、自分の罪(人に言えるレベルキョロキョロ)を告白し祈ってもらう(大変だったここにいきつくまで)

行えたこと!感謝!!イエス様ありがとう爆  笑

演じているよな教会・・・(心当たりがあるが、お祈りしようびっくり

 

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。 1ヨハネ1.7

 

>本物の交わりを保つには勇気と謙遜さが必要です。

ほんとうにそう思う。キョロキョロ

 

>本物の自分を見せると拒絶されたり、傷つけられるかもしれないのです。どうしてそんな危険を冒す必要があるのでしょう。

その理由はそうでなければ、霊的に成長し、情緒的に健康になることができないからです。

 

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。 ヤコブ5.16

 

この聖句の後には「いやされるためです」とある。

私には人に言うことの難しい愚かな恥ずかしい罪がある。言わなきゃいやされないのか。

必要があれば、言えますようにショボーン

◆追記2024/06/27◆

回復への道(リックウォレン)レビュー(ほしが1つの人w)中で興味深い回答があり、なるほどなと思いました。

「 くびきを負わされたら、・・・ひとり黙って座るが良い・・・」 哀歌3:28
とも、書かれてある。
ヨブは神様と一対一で相対して癒されました。エリヤも、ヤコブも、ペテロも、ハンナも・・・。ダビデもたった一人で荒野で神様と相対しました。
 ガラテヤ6:2には、『 互いに重荷を負い合い、』とあるので、クリスチャン同士が告白し合い、祈り合うことを否定はしていません。それだけが全てだと書いてることが、サタニックです。
(サタンニック→エバを悪魔が惑わした時、御言葉を使い、御言葉に混ぜ物をした)
 

ワンサイドな(偏った)教えに警鐘を鳴らしている感じでした。

確かに、僕が夕拝(礼拝の分かち合い)でこの話=罪の告白 をしたらあまりいい空気の流れにならなかった。(牧師が止めた)

決して強制されるものでもないし、罪を告白させる雰囲気にさせるのも違うし、みんなプライドあるし。(そのプライドを捨てて十字架にキリストは掛かられたわけですが)

自由がなくなるのかな?注意すべき点だと感じました。

 

>本物の交わりには相互依存がある。互いに支えあう関係。

新約聖書には「互いに~しなさい」という命令が五十回以上繰り返されている。

びっくりびっくりびっくり

 

そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

ローマ14.19

 

>本物の交わりには同情がある。相手の痛みを共に負う事。同情ではなく共感という人がいますが

聖書の言葉は同情です。

それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 コロサイ3.12

私たちの問題はいつも何かに追われていて、思いやりの気持ちが持てなくなっていることです。

あるいは自分の傷の事で精一杯で同情する余裕がないのかもしれません。

これはぶち的確。。。自分に余裕がないと、人への愛どころではない。

肉に生きていて、それでいて余裕がないと、さらにガーン

 

>交わりのレベルは適切な時期がある。

基本的は交わりは「分かち合い」「聖書の学び」

さらに進んだ交わりが「ともに奉仕する交わり」(一緒に宣教活動、慈善活動

最も深い交わりは「苦難を共にする交わり」痛みと悲しみを共有しお互いの重荷を負いあうのです。

 

その初歩の次(進んだ交わり)を僕は願っているなぁ。!!!

心の奥で思っているだけで、祈ってなかった。文字に(ブログで)表すことで主が教えてくださった。

主イエス様に栄光あれ!爆  笑

 

>本物の交わりには憐れみがある。交わりは恵みを受け取る場所です。過ちを受け彫りにするのではなく、消し去る場所です。

交わりは憐れみが正義に打ち勝つ場所です。

私たちはみな憐れみを必要としています。

 

ショボーン向き合うにはとてつもない勇気が必要だ。

 

>私たちは互いに憐れみを示し、また受け取る必要があります。

アーメン、そんな教会が造れますように、主が立て上げてくださいますように。

あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。2コリント2.7

 

>赦しのないところに交わりは生まれません。

互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 コロサイ3.13

 

>私たちは皆不完全で、罪を持っているため、しばらく時間を過ごしていると互いに傷つけあうようになってしまうのです。

交わりの維持は大きな憐みと恵みが必要です

あぁ、永遠に残る愛そのものだおねがい

互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 コロサイ3.13(2度目です。

 

・個人的まとめ

交わりを大切に、愛(憐れみ)意識。