ロンドンの真ん中、シティにほど近い場所にバービカンという場所がある。

その名は、ラテン語で砦という意味だ。

 

実際、ここはコンクリートで出来た砦のように見えないこともない。

このあたりには、ローマ時代の壁、ローマンウォールが残っているから、もしかしたらそこからついた名前なのかもしれない。

 

 

第二次世界大戦で、ドイツからの爆撃を受けて焼け野原のようになったこの土地に住居不足を解決する目的でCity Of London Corporationにより着手されたのが、このバービカンエステート。

ここは1965年から建設が始まった。入居は1969年から始まったけれど、この広い土地に立つ建築が全て終わったのは1976年だった。

部屋数は2,000戸。現在4,000人の人がここに住んでいる。

 

 

私は、初めて聞いた言葉だったのだけれど、この建築のスタイルはブルータリズムと呼ばれるらしい。コンクリート打ちっぱなしの、機能的な四角い建物。

 

3棟ある42階建てのタワーに、13のテラスブロックが公園や人口湖をぐるりと囲んでいる。敷地の真ん中には図書館、映画館、シアター、レストラン、ギャラリーなどの入ったバービカンセンターというのもある。

 

 

センターの公共の場所には、ミッドセンチュリーのイスが置かれ、天井は高く、まるで70年代で時間が止まったような空間が広がっている。人が住んでいるはずなのに、なぜかとてもひっそりとして静かだ。

 

 

ガーデンのついた家もあり、各部屋のベランダ部分は緑の植物に飾られている。

さらには、巨大な温室が、この建物の中にはあり、なんと2000もの南洋の植物がその中で育っている。

 

建物に囲まれた人口湖には魚が泳ぎ、水草が茂っていて、そのコンクリートの巨大な集合住宅と公共施設、人口的な自然は社会主義国家のユートピアのように見える。

 

 

打ち放しのコンクリートは、黒ずんで、老朽化を感じさせる。

なんとなく廃墟になったユートピアのような印象を受けるのだけれど、実際にはロケーションもよく、このブルータリズムの建築物がかっこいいということで、人気があるらしい。

 

それにしても、ロンドンのど真ん中にこんなところがあるなんて、驚きだ。

 

ところで私は、子供の時に団地に住んでいたことがあり、ここは団地を思い出させた。

あの、ひんやりとしてつるっとしたグレイのコンクリートも、鉄のドアも、同じ形の窓やベランダが規則的に並んでいる光景も好きで、懐かしく思う。なので、ここにも不思議な懐かしさを感じた。

 

アメリカ人の夫にとっては、公営住宅というのは低所得者層の住む場所というイメージで

あまりいい印象を持っていないようだ。

 

でも、戦争で都心部が焼け野原になり、その後の高度経済成長、核家族化などによる住宅不足で国が、公共住宅建設を進めたイギリスと日本は似ていると思う。

高齢者や低所得者への住宅供給、スラム解体政策だけではなく、若い家族や新しく都心部へ出てきた労働者たちへの住宅を担い、新しい文化がそこから生まれたというところも。

アメリカの公営住宅は、どんな感じなのだろうか。

 

バービカンも、公営住宅(カウンシルエステート)として建築されたのかと思ったのだけれど、調べてみると、ここは、シティオブロンドン コーポレーションという地方自治体による考案と建設だったものの、ロンドンのその近くの相場と同じ値段で貸し出されたらしく、最初のうちは、銀行家、弁護士、政治家などが住んだそうだ。

 

設計者たちがイメージしていた住人というのが「地中海で休日を過ごし、フランス料理や北欧デザインを好むような、専門職につく若い人」というのは、なるほどという感じだ。

 

1980年には、サッチャー政権による住宅法で、公営住宅に3年以上暮らしていた人たちはその部屋を市価の33%から50%安く購入出来るようになった。バービカンは、低所得者層のための公営住宅ではなかったものの、持ち主がシティオブロンドン コーポレーションだったので、同じ恩恵に預かることが出来て、それから、ほとんどが分譲されたらしい。

 

今、バービカンの部屋が貸し出されているのを不動産屋さんで見ると、1ベッドルームの部屋の家賃がひと月2000ポンドほどだった。30万5千円くらい!!!

一体、どんな人がバービカンには今暮らしているのだろう。とても、興味深い。

 

ブルータリズムという言葉に出会い、イギリスの建築物や歴史に興味がどんどん出てくる中、もっとロンドンを歩き回り、いろんなものを見てみたいと思っている。

特に、イギリスの公営住宅の建築は面白そうだ。

そして、またバービカンの温室やギャラリーなども、ゆっくりと訪れてみたい。

 

毎日、イギリスのことを少しだけ学び、そして、その分好きになってゆくのだった。