米とツケ

昭和40年(1965)前半。米の店頭値段は、10キログラム約1100円。46年後の現在、5キロ1600円位で買える。平均収入などを考慮すれば、あの当時の米は高かった。母と私だけの家庭は貧乏だった。体が弱くて働けなかった母はいつもお金の工面をしていた。おかずどころか、米が買えない時も頻繁にあった。典型的な貧困だ。今思うと、小説、テレビドラマ、映画の中のストリーのようだ。おかずがなく、ごはんに醤油をかけてたべた。だんだん常備米が少なくなってゆくと、おかゆや重湯だけになっていった。くる日もくる日も冷や麦だけのことも。これも汁がないので、醤油をかけて食べた。ただ10歳前後で食べ盛りの年齢なのに、私には、空腹感はなかった。少なくとも記憶には残っていない。それより、消したくても消せない米にまつわる嫌な思い出がある。米屋での苦い体験。母はよく幼い私を「利用」した。近所の米屋や食料品店に「お使い」に行かせた。家にはお金がなかったので、「ツケ」で食料品を買うのだ。あどけない小学生の女の子がお母さんの代わりに店に行き、店のおばさんやおじさんに、「ツケでおねがいします。」と言わせるのだ。私は恥ずかしくて、他の客が店からいなくなるまで待った。その上、もじもじして、小さな声しか出せない。おばさん、おじさんは、「えっ?」と何度も聞き返す。時には、聞こえているのに、意地悪から、繰り返し、聞き返してくる。そりゃ、しゃくにさわるだろう。ツケ、ツケ、といつ精算してくれるのか解らない。幼い子が来て、今晩食べるものがないのというのに、つげなく「だめだよ。」とも言えない。そして、不幸な事に、そんな貧乏の中で、母が「引っかかって」しまった男とその家庭は、同じ位貧乏だった。彼には子どもが二人と彼の老母も同居していた。左官屋のこの男、典型的な職人気質で腕はいいらしいけど、気に食わない仕事はしない。昼間から酒を飲んでいた。もちろん収入は入らない。妻が家出するのも当然。そこへのこのこと母は乗り込むのだ。私もつれて。彼の家には風呂もない、水道も無い。米もない。母は、その家の主婦きどりで、家事をするのだが、食べる物がない。結局、連れ子の私が店にお使いに行かされる。この左官屋の子ども二人に対して私の母は「継母」として気を使っていたのだろう。嫌なお使いは私にまわってくるのだった。鮮明な記憶。米屋は、長谷川米店。米は重たくて持って歩けないから、私は子供用の自転車で向かった。眼鏡をかけた店のおばさんに、私はどこどこの家にいる者です(何故居るのか理由は聞かないで)。そこのおばあさんが病気で来る事ができないので、私が代わりに来ました。米をツケで買わせて下さい。お金は「明日」入るので、必ず、支払いに来ます。お願いします。と、10歳になるかならないかの少女が米屋のおばさんに乞うる。おばさん、微笑んで、ああ、いいよ。なんて、行ってくれるはずはない。うさんくさそうに私を見ながら、小さな茶色の紙袋に米を計って入れる。速くして、どうか、もっと速度をあげて、包んで。私は心の中で叫んだ。出来る限り速くその場から逃げ出したかった。2キロか3キロだったと記憶する。一重の紙袋に入った米を自転車の後ろの荷台に巻き付けて、私は戻った。家の前には、何故かお母ちゃんも左官屋の老母もたって、私を迎えた。正直、私は、米を持って帰ってきたという成果が誇らしかった。多分彼女らも私に感謝したのだと思う。しかし、自転車からその米袋をおろすとき、袋に穴を開けてしまい、一重の紙袋から、米粒がこぼれ落ちてしまった。お母ちゃんは、私を厳しい目で、見て、声を荒げて、叱咤した。皆の見ている前で私は、道路にこぼれた米をあわてて拾い集めた。お母ちゃんが怖かった。そして、惨めで、恥ずかしかった。貧乏が悲しかった。涙がぽろぽろ落ちた。私は怒っていた。誰にも吐き出せない怒りだった。

昭和40年(1965)前半。米の店頭値段は、10キログラム約1100円。46年後の現在、5キロ1600円位で買える。平均収入などを考慮すれば、あの当時の米は高かった。母と私だけの家庭は貧乏だった。体が弱くて働けなかった母はいつもお金の工面をしていた。おかずどころか、米が買えない時も頻繁にあった。典型的な貧困だ。今思うと、小説、テレビドラマ、映画の中のストリーのようだ。おかずがなく、ごはんに醤油をかけてたべた。だんだん常備米が少なくなってゆくと、おかゆや重湯だけになっていった。くる日もくる日も冷や麦だけのことも。これも汁がないので、醤油をかけて食べた。ただ10歳前後で食べ盛りの年齢なのに、私には、空腹感はなかった。少なくとも記憶には残っていない。それより、消したくても消せない米にまつわる嫌な思い出がある。米屋での苦い体験。母はよく幼い私を「利用」した。近所の米屋や食料品店に「お使い」に行かせた。家にはお金がなかったので、「ツケ」で食料品を買うのだ。あどけない小学生の女の子がお母さんの代わりに店に行き、店のおばさんやおじさんに、「ツケでおねがいします。」と言わせるのだ。私は恥ずかしくて、他の客が店からいなくなるまで待った。その上、もじもじして、小さな声しか出せない。おばさん、おじさんは、「えっ?」と何度も聞き返す。時には、聞こえているのに、意地悪から、繰り返し、聞き返してくる。そりゃ、しゃくにさわるだろう。ツケ、ツケ、といつ精算してくれるのか解らない。幼い子が来て、今晩食べるものがないのというのに、つげなく「だめだよ。」とも言えない。そして、不幸な事に、そんな貧乏の中で、母が「引っかかって」しまった男とその家庭は、同じ位貧乏だった。彼には子どもが二人と彼の老母も同居していた。左官屋のこの男、典型的な職人気質で腕はいいらしいけど、気に食わない仕事はしない。昼間から酒を飲んでいた。もちろん収入は入らない。妻が家出するのも当然。そこへのこのこと母は乗り込むのだ。私もつれて。彼の家には風呂もない、水道も無い。米もない。母は、その家の主婦きどりで、家事をするのだが、食べる物がない。結局、連れ子の私が店にお使いに行かされる。この左官屋の子ども二人に対して私の母は「継母」として気を使っていたのだろう。嫌なお使いは私にまわってくるのだった。鮮明な記憶。米屋は、長谷川米店。米は重たくて持って歩けないから、私は子供用の自転車で向かった。眼鏡をかけた店のおばさんに、私はどこどこの家にいる者です(何故居るのか理由は聞かないで)。そこのおばあさんが病気で来る事ができないので、私が代わりに来ました。米をツケで買わせて下さい。お金は「明日」入るので、必ず、支払いに来ます。お願いします。と、10歳になるかならないかの少女が米屋のおばさんに乞うる。おばさん、微笑んで、ああ、いいよ。なんて、行ってくれるはずはない。うさんくさそうに私を見ながら、小さな茶色の紙袋に米を計って入れる。速くして、どうか、もっと速度をあげて、包んで。私は心の中で叫んだ。出来る限り速くその場から逃げ出したかった。2キロか3キロだったと記憶する。一重の紙袋に入った米を自転車の後ろの荷台に巻き付けて、私は戻った。家の前には、何故かお母ちゃんも左官屋の老母もたって、私を迎えた。正直、私は、米を持って帰ってきたという成果が誇らしかった。多分彼女らも私に感謝したのだと思う。しかし、自転車からその米袋をおろすとき、袋に穴を開けてしまい、一重の紙袋から、米粒がこぼれ落ちてしまった。お母ちゃんは、私を厳しい目で、見て、声を荒げて、叱咤した。皆の見ている前で私は、道路にこぼれた米をあわてて拾い集めた。お母ちゃんが怖かった。そして、惨めで、恥ずかしかった。貧乏が悲しかった。涙がぽろぽろ落ちた。私は怒っていた。誰にも吐き出せない怒りだった。